言葉の理を拵える – 成人へのビジョン 48
2026・8/26号を見る
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ある人は言います。「借りている物だから大切にしないと」。また、ある人は言います。「自分の物なら大切にするけれど、借り物ならそこまでかな」。同じ「借りる」でも、こうも感覚が違うから不思議です。
大好きな人から借りた本。雨の日に借りた傘。職場の備品。借り物への感覚は、相手との関係や経緯によって違ってきそうです。
「かしもの・かりもの」の教えも、そのイメージは人によって違うかもしれません。たとえば現代では、「借りる」という言葉から契約を思い浮かべる人は少なくありません。資本主義社会に暮らす私たちには、自然ともいえます。そうなれば、親神様のご守護への感謝よりも、権利や義務といった意識が先に立つかもしれません。感謝と義務。同じ言葉から広がる、異なる景色。だとすれば、問われているのは、教えを伝える側、私なのかもしれません。
神様の教えを伝えるに当たって、こんな言葉を耳にすることがあります。「自分の考えは要らない。教えられた通りに話したら良い」。私はその姿勢に頷きました。だからこそ思うのです。お言葉に、私自身の心を通わせたい、と。一方で、こうも聞きました。「自分の心のまま話すのがいい」。私は思いました。確かに心は大切だ。でもそれだけなら、勝手気ままと何が違うのだろう、と。
教えの字句をただなぞるだけでは、生きた言葉として伝えることができない。しかし、自分の思うままに語れば、教えから離れていってしまう。
その二つの間で、私は何度も揺れ動いてきました。大切なのは一方ではなく、その間にある場所なのかもしれません。
まず、虚心に教祖のお言葉を受け取る。しかしそのままで閉じることなく、“私”が生きる経験を通して、お言葉を繰り返し味わっていく。そうして深く味わう中に、お言葉の「外形」をなぞるだけではなく、その「内実」へと分け入っていく。大地を耕すように、歳月をかけて、お言葉の世界を自らの心に育てていくのです。伝えたいのは言葉以上に、その奥にある深い思召、親心です。
「言葉の理を拵えてこそ、八方である」
おさしづ明治37年11月2日
言葉を尽くしても、相手の胸に届かない。そうしたとき、思い出すお言葉です。私にはまだ、その「理」がない。そう思うたび、背筋が伸びます。
可児義孝・河西分教会長









