無難のご守護に気づき喜ぶ – 視点
2026・9/23号を見る
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「天災は忘れた頃にやってくる」とは物理学者である寺田寅彦氏の警句であるが、今年に入り、岩手県沖地震、熊本地震、千葉豪雨、北陸の記録的豪雨と、忘れる間もなく自然災害が相次いでいる。
災害の報道を目にすると、15年前の東日本大震災で被災したある家族のことを思い出す。倒壊した民家の屋根に立って助けを求める高校生が、自衛隊のヘリコプターによって発見された。屋内の隅にうずくまる祖母も助け出された。その9日ぶりの救出はテレビで大々的に報道された。
奇跡的な救出に対し、リポーターからマイクを向けられた父親は「私たちだけ、こんな幸せを味わうことを申し訳なく思います。何か役立つことができないかを家族で話し合いたい。たすけられた分を、お返ししたい気持ちでいっぱいです」と答えた。正直、その誠実な言葉に驚いた。後になって、この家族はようぼく一家であることを知った。父親が言う「たすけられた分を、お返ししたい」とは、“たすけていただいた自覚”があるからこその言葉に違いない。
当時、その言葉を聞いて自問した。筆者自身、この父親のように、たすけていただいたという自覚があっただろうか。
筆者の教会に津波は来なかった。だが、単に「無事で良かった」程度で済ませていなかったか。無事であることのご守護に、どれだけ感謝していたのか。思えば、それは震災に限らない。
『天理教教典』第六章「てびき」に「大難は小難に、小難は無難に導かれる親心」とある。「大難が小難に」というご守護には、案外気づきやすい。たとえば、交通事故を起こしたが、大事故の割に少しのけがで済んだ。そのことを「大難は小難に」と喜ぶ。それが「小難は無難に」となると、無難のご守護に気づきにくいこともある。
無難とは難が無いということ。だから、昨日と今日の自分に変わりがないことがご守護である。昨日と同じように身体が動き、家族が元気でいる。変わりがないことを無難のご守護として喜ぶ。それはご守護に敏感でいるからこその喜びである。親神様が十全の守護をもって命を支えてくださっている奇跡の日々である。
「おさしづ」に「大恩忘れて小恩送るような事ではならんで」(明治34年2月4日)と、「かりもの」のご守護のうえに日常の暮らしがあることを忘れてはならないと言われる。神恩を知ること、そして忘れないことは信心の要である。
(加藤)








