天理時報2023年11月29日号3面
【怒りの気持ちをうまく伝えられない – 人生相談】Q. 人に嫌なことをされた際、悲しみや戸惑いで頭がいっぱいになり、その場で相手に気持ちを伝えられません。あとで怒りが込み上げ、「怒るべきだった」と後悔することも。自分の気持ちを相手にうまく伝えられるようになりたいです。(20代女性)A. そこで怒らなくて良かったと思います。人が怒るときは、相手の「言動」について非難や不満を表すものですが、つい感情的になるので、相手は「自分」が非難された気になり、人間関係にきしみが生じます。陽気ぐらしは誰とでも良い人間関係を築くことだと思いますので、問題はあなたの言う通り、「自分の気持ちを相手にうまく伝えられるようになること」です。それにはどうしたらいいでしょうか。とかく、腹が立って怒るときは、「あなたは間違っている」「(あなたは)私を馬鹿にするな」など、相手を主語にした言葉を使うので、互いに批判し合うことになります。気持ちをうまく伝えようと思うなら、まずそのときの自分の気持ちを正確に捉えることが大事です。その方法は、「私は……」と、私を主語にして考えてみるのです。すると、「私は、あなたの言葉に悲しくなっている」「私は、あなたの行為がこの場に不適切だと思う」などと、自分の気持ちを正しく捉えることができます。そして、伝えたいことを心の中で一度言ってから言葉にします。会話は技術です。技術なら訓練で上達します。あとで後悔したときでもよいので、そのときの気持ちを振り返り、どう言えば良かったかを考えて、言い方を練習しましょう。回答者:古市俊郎(福之泉分教会長・公認心理師), 【創立100周年記念祭 – 名京大教会】名京大教会(諸井清忠会長・名古屋市)は10月21日、中山大亮様、中山はるえ様を迎え、創立100周年記念祭を執り行った。当日は、国内はもとよりアメリカ、ブラジル、台湾、カナダからも多くの参拝者が参集した。式典では、真柱様のメッセージを、大亮様が代読された。続いて、喜び心いっぱいにおつとめを勤めた。この後、諸井会長は大亮様、はるえ様にお礼の言葉を述べ、参拝者に向けては「100周年を新たな出発と思い定め、教祖140年祭へ、をやのお心ひと筋に進ませていただこう」と呼びかけた。祭典後、大亮様、はるえ様による鏡開きを皮切りに、大教会100年の歩みと全部内教会を紹介する動画の上映や抽選会などが行われた。(名京大教会・大馬社友), 【創立130周年記念祭 – 東海大教会】東海大教会(加見善一会長・三重県多気町)は10月29日、大亮様、はるえ様を迎え、創立130周年記念祭を執り行った。同大教会では、この日に向けて、「おたすけを通して、光輝く教会、よふぼく、信者を目指そう」を基本方針に掲げ、全部内教会への一斉巡教や「おたすけ実践のヒント」を記した小冊子の配布、おつとめの勤修などに取り組んできた。当日は、真柱様のメッセージを、大亮様が代読。続くおつとめは、記念祭へ向けての歩みとその思いを込めて、一手一つに勤めた。あいさつに立った加見会長は、教祖140年祭に向け、教祖にお喜びいただけるよう、これまで以上に自分にできるおたすけの実践に励むことを参拝者と共に誓った。(東海大教会・土生社友), 【節に心倒さず新たな一歩を – この旬に一歩成人】原節子さん(74歳・川野春分教会春誠布教所ようぼく・埼玉県越谷市)2年前に布教所長を務めていた夫が出直しました。この大節に心を倒し、30年来続けてきたにをいがけに出られずにいました。そんななか、今年1月、今度は布教所につながる信者さんが出直す節を見せられたのです。「どうして、あんなに良い人が……」と胸が詰まる思いでした。しかし、これらの節を通じて、親神様は私に成人を促されていると思い直し、新たな一歩を踏み出そうと、先ごろ戸別訪問を再開しました。そんなある日、以前からの通い先だった、ひきこもりの息子さんを抱える家庭を久しぶりに訪ねました。そのとき、長年引きこもっていた彼が、最近になって部屋の外へ出るようになったことを知ったのです。理由を尋ねると、昨年11月、父親のがんが発覚し、そのころから次第に外へ出るようになったとのこと。「なんとか立ち直ってほしい」という父親の思いを汲み取り、思いきって外の世界へ踏み出した彼の勇気を思うと、私も勇み心が湧いて、前向きな気持ちになれました。いまの目標は、この三年千日の間に彼を修養科へ導くこと。その伏せ込みの意味を込めて、今後もにをいがけ・おたすけに励み、一人でも多くの人に教えを伝えられるよう努めたいと思います。, 【理想と現実のはざまで – 視点】パレスチナ・ガザ地区におけるイスラエルとハマスの対立が日を追うごとに深刻化している。いやむしろ、ガザ地区におけるイスラエル軍の攻撃が深刻な「人道的危機」を引き起こしていると言ったほうが適切かもしれない。もちろんイスラエル側とハマス側の双方に、それぞれの主張がある。それは、長く複雑な歴史的経緯の中で深まった対立である。いずれにせよ私たちは、テレビやSNSを通して、現在ガザで何が起きているのかを知ることができる。それらの情報を通じて、子供を含む多くの無辜の命が無残なかたちで失われるさまを、否応なく目にすることになる。だが、現実的に人間は、こうした過酷な情報にずっと関心を持ち続けることは容易ではない。確かに、現地の悲惨な現状を垣間見れば、誰もが心を揺さぶられるだろう。思わず「可哀想に……」と呟いてしまうこともあるだろう。だが私たちは、再び現実の生活に引き戻され、自分自身の世界が関心の焦点となる。そもそも一人の人間が”処理”できる情報量には限りがある。もとより、それは選択的なものであり、高じれば、「見たくないものは見ない」という、いわゆる「選択的ニュース回避」の状態になる。こうしたことに加え、過酷な状況に置かれた人々に”共感”はできても、それが過ぎると、今度はわが身がつらくなる。医療や介護の現場で専門家が陥りがちな、いわゆる「共感疲労」である。それでもなお、それぞれの仕方で、いま世界で起きていることにこまやかに関心を持ち、彼(女)らの痛みや悲しみを想像してみることには大きな意味があるはずだ。つとめの完成を急き込まれ、陽気ぐらし世界の実現を望まれている教祖は、そのひながたの道を、まさに理想と現実のはざまの只中で歩まれた。戦争や紛争によって突きつけられる理想と現実の落差に時に落胆しつつ、なおも「一れつきょうだい」の教えを信じ続けることこそが、せめて私たちようぼくが歩み得る、微力ながらも大いなる可能性を秘めた道であるように思われる。(島田)