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どんなときも心明るく – 三年千日 ひながたと私


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2024・2月号を見る

古山裕之(平牧分教会長・58歳・岐阜県可児市)

このたびの三年千日は、どんなときも心明るく通ることを第一に歩ませていただいています。

10年前、教祖百三十年祭の年祭活動が始まってすぐ、信者さんに強迫性障害という身上をお見せいただきました。この病気は本人が苦しいだけでなく、家族にも大きな負担が掛かります。ご守護を願って、私のできることを精いっぱいつとめさせていただきました。

しかし、何年経ってもなかなか目に見えるご守護を頂けず、また家族の方からは、天理教を信仰していても少しも良くならないと言われ、心を倒すこともありました。そのころの私は、教祖のひながたを考える余裕もなく、独り相撲を取っている状態でした。

そんなとき、ある先生から「教祖は50年もかかってこの道をお付けくだされた。1年や2年で結果が出ないと言って心を倒すよりも、教祖にもたれきって、心明るく通ったほうが良いのでは?」とお話しいただき、あらためて自分の通り方、心のあり方を見つめ直すということがありました。

信者さんの身上は、いまも続いています。しかし、落ち着いてよく考えてみると、身上は良くなっていませんが、悪くもなっておらず、家族と一緒に生活できている状態です。「これもご守護なんですよ」と、喜ぶほうへ教え導かなくてはならない私自身が喜べていなかったことを反省し、前を向くことができました。

そして、昨年の秋季大祭で真柱様がおっしゃったように、教祖はどんななかも決して諦めずに丹精し続けられた、そのひながたを忘れてはならないということも、再確認させていただきました。

こうしたことから、いまの私にとって、どんなときも心明るく通ることがひながたをたどる第一歩となっていますが、最近、周りにいろいろなことが次々に起こり、葛藤することが多くなりました。そんなときは、この旬に教祖が、私の肩をポンポンとたたいて、「喜んでいますか?心明るく通りましょう」と声を掛けてくださっているのだと思うようにし、自分の心をコントロールしています。

こんな初歩的な歩み方ですが、少しでも教祖にお喜びいただきたいと奮闘している毎日です。