十全であるということ – 成人へのビジョン25
2024・6/5号を見る
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「健康」とはどういう状態を指すのでしょう。こう聞かれると案外、困ってしまいます。研修医が同じ質問を受けたところ、みんなしどろもどろだったそうです。回答の多くは「病気ではないこと」「ケガがないこと」「検査数値に異常がないこと」だったといいます。「○○ではないこと」、つまり誰も「健康そのもの」については答えられなかったのです。
不健康でないことが健康である。もしそうなら、健康とは「不健康がなければ存在しない」ということになります。誰もが求めてやまない健康が、これほど曖昧なものだとしたら驚きです。
人は不健康な状態にあるとき、顔色や呼吸、動きから、すぐにそれと知れます。けれども人が健康であるとき、特に目を引く兆候はありません。むしろ本人も周囲も極めて自然な感じを抱くものです。健康は絶え間なく「ある」ことで、「ない」も同然に思えてしまうのです。空気に満たされた地球で無意識に呼吸し続ける私たちが、その存在を意識することがめったにないように、人は健康のただなかにありながら、それを感じ取ることは、とても苦手なのです。
私の恩師は晩年、半身不随の身でした。その恩師が全身麻痺の方との交流を通じて感じたことを話してくれました。「もしもその方が、指一本ぴくりとでも動いたら、泣き叫んで喜んだと思うんです。そのご守護をいま、私も皆さんももらっている。それなのに喜びが湧いてこないというのは、どういうわけでしょう」
神殿掃除のさなか、よくこの言葉を思い出します。「先生が、どれほど願ってもできなかったことを私はさせてもらっている」。そう思うと、箒で畳を掃くのも、布巾でお社を拭くのも、神前で手を合わすことも、その一つひとつに静かな喜びが生まれます。
もしかしたら、私たちは不感症なのかもしれません。というより、それが正常なのかもしれない。意識にのぼらないほど、十全(少しも欠けた所がなく、すべて完全)に与えられている。私たちがその守護を余すことなく感受したならば、それこそ「泣き叫んで喜んで」しまうかもしれません。
でも恩師の言葉は告げています。私たちは、それほどのものを日々、親神様から頂いているんだよ、と。