論より誠 – 成人へのビジョン26
2024・7/10号を見る
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人と接する中で、共感や思いやりよりも理屈が先行してしまうことがたびたびあります。そうしたとき、私自身もさみしい気持ちになります。たとえば、人から何かを打ち明けられれば、整合性や論理を超えて相手を思う真実の心で向き合いたい、そう願います。
私は天理教校本科で天理教学を学びました。教理を研究する、それは信仰の論理を学ぶこと。物事を真に学ぶには、ときに批判的思考を巡らすことも大切です。その際、自身の信仰の熱源とは意識的に距離を置くことが必要になります。それは原典に対して謙虚でありつつも、冷静で客観的な研究態度です。
こうした営為には「徳」がいる、私はそう思いました。でなければ、無味乾燥な論理の世界に呑み込まれ、信仰が枯れていくように感じたのです。私は迷子のような不安な気持ちになり、間もなく勉強机の一角に、ある「おさしづ」を掲げます。
「論は一寸も要らん/\/\。論をするなら世界の理で行け。神の道には論は要らん。誠一つなら天の理。実で行くがよい」
(明治22年7月26日)
論は要らない。でも私は論を求める。なぜ?――。その答えが出ないまま「論より誠」と掲げ、教学を学ぶ日々。安易に答えを出すのではなく、その葛藤を引き受けることが大切だと思いました。割り切りは許されない。割り切ることで、何かを捨てることになる。それは恐ろしいことです。
教理は情報ではない、そう思います。情報であれば、いったん取得すればそれでいい。けれど先人は「千遍聞いて千遍説け」と仰っています。別席では同じ話を九回聞く。それには「情報の取得」以上の意味があるはずです。「教理を上手に説明する」のもいいことですが、それを過剰に追い求める必要はない。相手を議論で負かす必要もない。大切なのは、教理を学ぶことで私自身が変容すること。やはり神様の望みは「論より誠」なのでしょう。
先学の文献を読むと、論理の奥に光る信仰にふれるような瞬間があります。それは研究者ではなく、信仰者としての出合いです。布教の努力とはまた違う、血のにじむような研鑽が、そこに結実しているのです。
論より誠。けれど自分勝手な誠ではいけない。自分の尺度(論理)を超える誠を――。
私たちは教学の確かな地歩に支えられ、誠の道へ踏み入っていくのです。
画像:イラスト・かにたづこ