たすけ一条を第一に 人に応じて導き育て 中川よし(下) – おたすけにいきた女性
2024・7/17号を見る
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東本の道が伸展するにつれて、よしは、おたすけと信者の丹精に多忙を極めた。その仕込みの厳しさは、ひと通りではなかったという。そんな中も、入浴は決まって終い風呂に入り、皆が寝静まってから便所掃除をするなど、自らを律して人々を育てた
神様だけを頼りに
よしは、ある布教師に誘われ、明治29年春から数カ月間、東京で布教しました。その間にできた信者を、その布教師に任せて赤熊へ戻ると、一段とおたすけに励みます。しばらくして、立て続けに不思議な夢を見ました。髙安の役員からその夢についてお諭しを頂き、再度、東京で布教することを決心します。
先の東京布教の折、つらい思いをした長男・庫吉と長女・春子は、再びよしが出ていくと察して、死に物狂いですがりつきました。よしは二人を母・うのに託し、次男・光之助を背負って出発します。「長いお道の道中にも、私が苦労と思ったことは、この時だけであった」と述懐しています。
東京に着いたよしは、以前、信者を任せた布教師の家を訪ねます。しばらく泊めてもらえると思っていましたが、4、5日で追い出されました。「ひとのこゝろといふものハ ちよとにわからんものなるぞ」とのお歌が、よしの心に響き、人や物に頼らず、神様だけを頼りに歩むべきと心に刻むのでした。後年よしは、布教に出る人に「天の恵みは受けるとも人の情けは受けてくれるな」と、よく聞かせたといいます。
12月初旬から約40日間、よしは宿なしで過ごしました。泊まるところもお金もなくなり、神様のご守護のありがたさを一層身に染みて感じるのでした。小川の水を手で汲み、何度もお礼を申し上げてから頂き、飢えを凌ぎました。やがて信者たちは、よしに宿がないことを知ります。佐津川亀太郎はじめ信者の真実が集まり、明治31年2月19日、東京市本所区外手町40番地に集談所が設置されました。
同年4月、よしは2、3日続けて奇妙な夢を見ます。何ごとかと思案していると、長女・春子が重体との知らせがあり、間もなく危篤との電報が届きました。何があっても3年間は赤熊へ帰らないと神様に約束していた、よしの心は乱れます。春子に優しい言葉をかけてやりたいと思いはしても、いま帰れば東京の信者を路頭に迷わすことになると考え、「母はやはり帰れぬ。おまえにはすまぬが、神様の御用は捨てるに捨てられない」と決心し、涙ながらに手紙を認めました。よしの両親がそれを読んでいると、そばにいた春子が泣きだしました。重湯も喉を通らなかったのに、「お腹が空いた」とご飯を食べ始めたのです。春子は、やがて全快しました。
こうしたよしの真心で、信者はたすけられ、育てられました。同年10月1日、東本布教所の設置をお許しいただき、その後も東本の道は伸展の一途をたどります。
布教方針の大転換
よしは、おたすけ先に一日一回は出向きました。夜遅いときは外から戸を叩き、「ご様子はいかがかと思って、おたずねいたしました。皆様お変わりありませんか?」と尋ね、無事を確認すると「それは結構でございました。また明日お伺いいたします。お疲れのところを、お邪魔してすみませんでした。お休みなさいませ」と言って帰りました。
よしの日常の行動は、おたすけそのものでした。教祖をお慕いし、たすけ一条を第一として、人に応じて育てました。「どんな人でも、これは駄目だとか、あれはいけないとか言って捨てるようなことは決してしないように。こちらの真心で仕込めば、皆神様のお道具ですから」と口癖のように説き、愛想を尽かさず導きました。その精神は、言葉づかいにまで徹底していて、誰に対しても傲慢さはなく、最も的確な言葉で人を感化しました。
よしは、恩に感ずることに敏感であり、恩に報ずることに篤い人でした。ある大雪の日、よしは瀕死の状態になった人のおたすけに行き、水行をとっておさづけを取り次ぐと、息を吹き返しました。その人がお礼参りにやって来ると、よしは涙を流して喜びました。その人を暖めてやりたい一心から、2銭のお金を持って炭を買いに行きますが、冷たく断られました。ようやく売ってくれる店があると、よしはそのご恩をいつまでも忘れず、近くを通るときは必ず頭を下げてお礼をし、その店の繁栄を祈ったといいます。
明治34年3月、よしが3年6カ月ぶりに赤熊を訪れると、真実を尽くしておたすけし、丹精した人々が出直したり、道を離れたりしていた事実を知ります。このときのよしの落胆ぶりは、尋常ではなかったといいます。
「私が誤っていた。たすかってもらいさえすればよいという思い一つで、身上だすけばかりしていて、心の救いに点晴を欠いていた。たすけていただけば、これからどうするのが本当であるか、神様のご恩への報恩の道を教えていなかった。そのために、こんな結果になった」
よしは、難儀不自由は誠の精神をつくることによってたすかってもらおう、たすかったら恩を知る人になってもらおうと、真に精神を救うことに重点を置くと、布教方針を一変しました。たとえ一時的に信者が減っても、一人でも誠真実の心で生きる人を育て上げたいと、厳しく仕込んでいくのでした。
ひたすら教祖をお慕いし
明治44年1月27日、天理教婦人会第1回総会が開催され、講演会の講師に選ばれました。よしは、「今日、かように大勢の皆様がお集まりくださった有様を、御教祖おやさまは、どんなにお喜びくださっていることでございましょう……。おやさまの御苦労をお聞きするだけでも……」と話すと胸がいっぱいになり、こらえきれずに泣きました。やがて会場のあちらこちらからすすり泣きが起こり、たちまち会場全体に広がりました。これは「15秒の名講演」として語り継がれています。
よしは、22歳で教祖ひながたの話を聞いて以来、教祖を語るたび、想うたびに涙しました。誰彼が演壇で話をするときは、その内容が立派であっても、教祖についてふれなかったならば、道の話としての生命がないと注意したり、叱言を言ったりしたといいます。
大正10年8月から身上がすぐれず、翌月、急に悪化しました。よしは近親者を呼び寄せ、「私は今度は出直しです。私をたすけようと思って決して神様に無理なお願いをしないでほしい。今年は五十三歳、これで出直すと若死のように思えるが、丹波で母の命をたすけていただくために私の寿命を半分に切り詰めて母の命を二十年お借りしたいとお願いした。(中略)おかげさまで、母はその時からキッカリ二十年、借りものを使わせていただいた。ですから、いま私が出直しても五十三歳で出直したと思うでない、七十三歳まで生かせていただいたも同じこと。皆はこれを十分承知してくれるように」と伝えました。教え導いた人々を病床に招き、「教祖のお話を聞かしておくれ」と言って、涙を流して静聴しました。人々は必死によしの平癒を願いましたが、翌年3月22日に出直しました。
◇
よしは、自身のことを「いんねんの深い人間」であると言い、そうであったからこそ懸命にこの道を通ることができたし、ありがたかったと語っています。そして自身が歩んだ道を、こう振り返っています。「私は、教祖のおひながたの、何百万分の一でも通らせてもらいたいと思って、つとめてきたけれども、ちっとも苦労させていただけなかった。教祖は私に苦労させてくださらなかった。数ならぬ身の私のような者でも、おたすけにかかれば、教祖はどんどんたすけてくださった。教祖お一人が御苦労くださったのだ」
よしは、ひたすら教祖をお慕いし、教祖と共に歩き、たすけ一条に生涯を捧げたのです。
文・松山常教(天理教校本科実践課程講師)