「布教」ってなんだろう – 成人へのビジョン27
2024・8/14号を見る
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9月は「全教会布教推進月間」です。字義通りに解せば「布教」を「推進」するわけですから、「布教活動の実践」がその眼目といえます。
一方、布教という言葉の意味を考えるならば、「いまだこの道の教えを知らない人に、真実のをやの教えを伝え広めること」がその目的であり、「実践」の多寡以上に、活動を通じて「教えを人々の胸に届けられたか」が重要となってきます。行動と成果のどちらに重きを置くべきか、その答えは分かりませんが、一方に偏重し他方を軽んじることは避けたいと思います。ひたむきな布教実践も、なんとか伝えようとする真摯な葛藤も、その人の誠の表れではないでしょうか。
成果を別にすれば、布教は心一つで誰にでもできます。相手の反応はどうであれ、やったらやっただけは実践です。そういう意味では、布教(行動)は一人でもできるということでしょう。
その分、行為が独りよがりになる可能性もあります。そこで、「どうやったら相手に伝わるだろうか」と、相手の身になって考える(にをいが掛かるという状態を意識する)ことで、自己本位な取り組み方を脱し、他者と結びつく可能性や、いかにして神様にお働きいただくかという視点が開けてくると思うのです。
「布教の家」時代の仲間との会話です。1カ月目は「どうやって、おさづけの取り次ぎまでもっていったの?」「こう話したら聞いてもらえた」という方法論。数カ月経つと、「断られてもいいから一軒一軒心を込めて回ろう」「何を話すかではなく、相手と真摯に向き合おう」という、人と向き合う姿勢。卒寮のころには、「自分の心を磨いてもらった」「相手ではなく、すべては私なんだ」「布教中だけでなく、何げない日々の通り方、一瞬一瞬の心づかいが大事」と、「布教」の持つ一般的な意味合いを遥かに超えて、歩く者自身の変容へと意識が次第にシフトしていきます。
私は、そのこと自体にご守護を感じます。
「自由という理は何処にあるとは思うなよ。たゞめん/\精神一つの理にある」
おかきさげ
にをいがけ・おたすけを通して、そのことに本当に気づけたならば、そのとき私たちは、真実の道の確かな途上にいるはずです。