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癖、性分と向き合い心定めを実行 – 三年千日 ひながたと私


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2024・11月号を見る

森田敏浩(福森分教会長・61歳・北海道小樽市)

諭達に「よふぼく一人ひとりが教祖の道具衆としての自覚を高め」とあります。教祖の道具衆について、二代真柱様は「教祖の心に溶け込んで、勇んでつとめる事が、教祖の道具衆たる所以であります」(『道具衆』)とお示しくだされています。

私は毎朝「教祖おはようございます。おかげさまで、きょうという日を迎えさせていただきました。きょうも一日、教祖の御用にお使いくださいますようお願いいたします」とごあいさつ申し上げ、一日が始まります。成ってくることはすべて教祖の御用と思ってつとめさせていただき、一日の終わりには「きょうも一日、教祖の御用にお使いいただきありがとうございました」とお礼を申し上げます。

私はいままで、おたすけの現場で何度も失敗してきました。悩み苦しんでいる方に、教理を盾に責め言葉を使い、相手をさらに苦しめていたようで、自身の癖、性分が出ていたことを痛感します。

2年前に教養掛を務めたとき、心の病を抱えた女性の修養科生がいました。私はそうした方のお世話をした経験がなかったので、どう対応し、寄り添っていいのか分からず不安でしたが、「怒らない、説得しない、待つ」という言葉がふと思い浮かび、この三つを心に定めました。

彼女の心の天気は一日の中でも激しく動き、いま晴れていたと思っても、突然土砂降りに変わることもあり、何度も驚かされました。しかし、不思議と彼女に腹を立てることもなく、修養科生はこうしなければいけないと説得もしませんでした。彼女が時間通りに来なくても、ひたすら待つ。そして、彼女のそばでゆっくり話を聴くなかで信頼関係が生まれたように思います。彼女との修養生活を通して、心定めを日々実行し続けることと、自身の癖、性分としっかり向き合うことの大切さを教えていただきました。親神様は必要な時に必要な人を必要な所でお与えくださると、あらためて感じました。

逸話篇に「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや」とあります。

このお言葉を胸に治め、さあ、きょうも教祖の道具衆としての、新たな一日が始まります。