“親の声”を頼りに一意専心 – 視点
2024・11/6号を見る
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過日、筆者の教会に一人の青年が参拝に訪れた。数年前から宗教に興味を持ち、幾多の教団本部にも足を運んだ。その中で一番感銘を受けた教えが天理教であったという。
今年の春季大祭には彼一人でおぢばへ帰り、教理書を買い込み、おつとめの手振りは本部の礼拝場で見よう見まねで覚えたと聞く。
約90キロの道のりを、教会を目指してきたこの青年に、筆者はただただ感心するとともに、尊敬の念を抱くほどだった。なぜなら、この青年は独学で得た教祖の教えを信じ、疑うことなく、素直に咀嚼し、自信に満ちた表情で語るからである。
しかし最後に、この青年は言う。「私の周りには天理教の人はいません。現在、天理教はあまり布教活動をしていないんですね。入信したいけれど、だれも私に、にをいがけをしてくれません」と。
こうした思いを抱く人がいる。しかし、たすけを求めている人の多くは、この青年のように信仰を求めることなく、真の親を知る術もない。
「諭達第四号」に、ようぼくの日常について「家庭や職場など身近なところから、にをいがけを心掛けよう。身上、事情で悩む人々には、親身に寄り添い、おつとめで治まりを願い、病む者にはおさづけを取り次ぎ、真にたすかる道があることを伝えよう」と仰せくださる。日々ようぼくであることを自覚し、成果のあるなしにかかわらず、諦めず、おたすけ心を持ち続けなければならない。
あるとき先人の先生方が、教祖の御前に集まって、各自の講社が思うようにいかないことを語り合っていると、教祖は「どんな花でもな、咲く年もあれば、咲かぬ年もあるで。一年咲かんでも、又、年が変われば咲くで」と、お聞かせくだされて、お慰めくだされた、という(『稿本天理教教祖伝逸話篇』198「どんな花でもな」)。
たすけ一条の御用に励む日々には勇める日もあれば、心が倒れそうな日もあるだろう。その中を“親の声”を頼りに一意専心に努め、見抜き見通しの教祖に「一年咲かんでも、又、年が変われば咲くで」と、お言葉を賜れるような通り方を心がけたい。
(岡本)