羽根をつくように – 成人へのビジョン 31
2025・1/15号を見る
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「正月、一つや、二つやと、子供が羽根をつくようなものや」
『稿本天理教教祖伝逸話篇』19「子供が羽根を」
おやさまがおてふりをお教えくだされたときのお言葉です。なんとも軽やかで晴れ晴れとした気持ちになりませんか。お正月にてをどりを勤める際には、特にこのお言葉が浮かびます。すると、清々しく陽気な心持ちがしてくるのです。
人は神事や祭儀に際して、どんな心象を抱くでしょう。感謝や感動とともに、荘厳さや畏敬の念を抱く方も多いのではないでしょうか。「神事である」という気持ちが昂じるほど、形式を厳守する姿勢が強まり、場全体が厳粛さや重々しさに包まれることもあります。でも、おやさまは「子供が羽根をつくようなものや」とおっしゃいました。これは驚くべきことです。神事が子どもの遊びと同じようなものなのですから。そこには真剣さと陽気さが溶け合った境地があるのではないでしょうか。
さて、これはあくまで私的な読みですが、哲学者ニーチェは人々が強固に持つ「こうあるべきだ」とする観念を「重さの霊」と呼びました。これに憑かれると、人は創造性や自由を失い、ついには自分の足で立てないほど弱くなってしまいます。この「重さの霊」に打ち克つにはどうすればよいか。彼は「踊ることを学べ」と言います。ここでの「踊ること」は、「自らの生を肯定し、それ自体を積極的に楽しむこと」といった意味合いです。「踊る」とは「重さ」から解放された姿を指すのでしょう。
私たちが「踊る」とき、それはおやさまから直接お教えいただいた、言葉(地歌)と動き(手振り)を再現している姿にほかなりません。「我がもの」である心以外は、陽気ぐらしを望まれる親神様から教えられたそのままの姿、それが私たちのおつとめです。そこに余分な思いを差し挟む必要はないのかもしれません。
私たちの信仰は、積もり重なったほこりを払い、澄み切った元のいんねんに復す歩みでもあります。ですから私は、歌と手振りを味わい、をやの思いに溶け込むようにして、軽やかに勤めたいと願っています。真剣に、羽根をつくように。
正月をどりはじめハ やれおもしろい
(二下り目)
道を歩むのに、重い足取りでは遠くまで行けません。今日も私たちは、おやさまの教えを胸に、軽やかに踊ります。
可児義孝・河西分教会長