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「教祖のおかげ」と言葉に出して – 三年千日 ひながたと私


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大鳥正敏(大海分教会長・55歳・大阪市住吉区)

私がまだ幼かった遠い記憶の中に、祖父の言葉としての「おやさま」がいてくださいます。祖父はいつも、「ありがたいな、結構やな、教祖のおかげやな」と言っていました。子供のころは教祖がどういうお方なのかも分かりませんでしたが、大好きな祖父が「教祖のおかげ」と言っていたので、分からないながらも、教祖のおかげなんだと信じていました。

教会で生まれ育ち、おぢばの学校で青春時代を送るも、参拝中は、ただボーッと頭を下げていただけだったように思います。しかし、何か願い事があるときには「教祖たすけてください」と、困ったときの神頼みをしていました。

そんな私も、周りの方々に教えられ、支えていただきながら、教会長として27年間も通ってくると、教祖のおかげを日々感じずにはおれません。そして、この三年千日、なんとか教祖にお喜びいただきたいと通っているところです。

教会では、部内教会ともども、にをいがけとおぢば帰りを主軸に、一人ひとりが心を定めて通らせていただこうと申し合わせています。

私は、毎月一人は未信仰の方をおぢばへお連れする心定めをしています。そうして歩むなか、何度も〝教祖のおかげ〟を頂きました。

手の手術をした友人が、術後も痛みが続き、握力も2キロまで落ちて苦しんでいました。おぢば帰りをしていただき、教祖殿でおさづけをお取り次ぎしました。するとその夜、友人から電話で、痛みが消えたと喜びの連絡がありました。現在は握力も戻り、別席を運んでくれています。

先日、にをいが掛かったご夫婦をお連れして帰参したときのこと。私は教祖殿で、ある方の身上平癒を願っていました。参拝を終えて立ち上がるや、後ろから声を掛けられたので振り返ると、そこには、いま私が一心に願っていた、その本人とご家族が立っていたのです。ご存命の教祖が引き合わせてくださったと感動せずにはおれませんでした。すぐさまその場で、おさづけを取り次がせていただきました。教祖はきっとたすけてくださると信じています。

この仕上げの年。「ありがたいな、結構やな、教祖のおかげやな」と、日々言葉に出してつとめます。