教祖を身近に感じられる喜び – 三年千日 ひながたと私
和泉谷 元(松阪松和分教会長・46歳・三重県松阪市)
教祖百二十年祭三年千日の折、教祖殿で参拝していると、後ろの男性が突然、泡を吹いて倒れました。振り返ると、男性の隣にいたご婦人がすぐに、おさづけを取り次ぎ始めました。取り次いだ後も「教祖!教祖!」と叫ぶ必死な声に、私は身が震えました。
すると、その男性は息を吹き返したのです。ご婦人は、たまたまそこに居合わせた方でした。私は、おさづけが身についているよふぼくの姿に感動するとともに、必死に呼ぶ声にすぐ駆けつけてくださる教祖のお働きを実感しました。
教祖百三十年祭三年千日の折、統合失調症の方のおたすけのため、その方と共におぢばでひのきしんをしていました。彼は調子が悪かったせいか、急に機嫌が悪くなり、「会長さん、ちょっといいですか」と言われて振り返ると、いきなり強烈な平手打ちをされました。これほどお世話しているのに、なぜ理不尽にたたかれなければいけないのか、と大変ショックでした。
そのことを妻に相談すると、
「どこでたたかれたの?」
「教祖殿の前」
「良かったやん」
「なんでやねん!?」
「年祭に向かって、教祖に一発気合い入れてもらったやん!」
なるほど、確かに、おかげで気合いが入り、会長として初めての年祭に向けて一層力が入りました。「教祖を感じられるならば、平手打ちもまた親心」と喜びに変わりました。
教祖百四十年祭三年千日、1年目の秋季大祭で、真柱様から、休憩しているよふぼくに目覚めてもらうための丹精が大事だとお聞かせいただきました。教祖から2年目の御用を頂いた気がしました。
その祭典後に、信者さんからおたすけの相談を受けました。余命宣告されたご主人に関する相談でした。ご主人は10年ほど教会から遠ざかり、まさに休憩しているよふぼくでしたが、身上を機に教会の月次祭に参拝されるようになりました。2年目には、こうした丹精を促される機会が相次ぎました。
「諭達第四号」の想いをわが想いとすることで、教祖をより身近に感じることができます。それを喜びとして、年祭のその日まで、しっかり実践に励みたいと思います。