万人の道しるべ – 成人へのビジョン 32
2025・2/12号を見る
【AI音声対象記事】
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もうすっかり道を覚えなくなりました。スマホのナビが、経路を教えてくれるからです。ナビの本質は指示であり、判断の外部化です。それにより迷うことなく目的地へ行けます。
ところで、日々の暮らしでも「ナビがあれば」と思うことはありませんか。困ったときに解決のルートを示してくれるナビです。でも、そんなものは存在しません。生きることは、交通網のような単純な要素には還元できません。私たちは、それぞれが唯一の生を歩んでいるのです。
そうした日々において、信仰は一つの方向性を示してくれます。でも、それはナビではなく指針。たとえるなら、北極星です。
北極星は古来、人々がどこから眺めても北を示す固定点でした。はるか彼方から「北」を告げる、万人の道しるべです。信仰は北極星に似ています。私たちの信仰生活には細かい戒律も義務もなく、大きな方向性があるだけです。そのため、信仰者も時に迷い、判断に苦しみます。そうしたとき、星を仰ぎ、一歩ずつ歩んでいく。自分で道を探るのです。
もしも信仰が完全なるナビであれば、私たちには悩みがなくなるでしょう。同時に、主体性もなくなり、世界や他者への関心も薄れるでしょう。それは、盲目的な信仰を想起させます。そこでは、信仰はなんら自身を変革する契機とならず、精神を涵養することもありません。しかし、心の自由を謳う私たちの信仰はそうではないはずです。
教理は生き方を指し示します。それは、あなたに参照されることを待っています。
ですが、たとえば「誠」と示されても、それがいま・ここでどうすることなのか、本当のところは分かりません。でも、それでいいのです。方向性のみで具体的指示がない。だから真摯に向き合うほかない。それにより心は涵養され、磨かれていく。
運転は近くばかり見ていると危険ですが、視線を遠くに保つことで安定します。信仰は、はるか彼方、不断に輝く北極星のように私の生を照らします。それは、私たちが真摯に生きることを促します。なぜなら、示された方向へ進むことは、時に困難だからです。困惑してもなお、方向を見失わず、自らの足で歩みを進めることができる。それ自体、とても幸福なことかもしれません。きっと私たちは、そうした道程を「道を歩む」と呼ぶのです。