どんなときも親神様・教祖が頼り – 三年千日 教祖と私
佐藤正幸(田舎舘分教会本八戸布教所長・66歳・青森県八戸市)
私は単独布教師です。今年で37年目になりますが、どんなときも親神様・教祖が頼りです。
30歳のとき、自転車に最低限の荷物と寝袋を積み、生まれ育った津軽から八戸に来ました。本八戸の駅前まで来て、さて何をしようかと考えあぐねた私は「教祖、右も左も分からない土地です。どうしたら良いですか?」と天を仰ぎました。すると、こかん様が浪速で神名流しをされている姿が頭に浮かんだので、駅前で神名流し、よろづよ八首奉唱、路傍講演をさせていただきました。これは、いまも毎日続けています。
しばらく経って物置小屋が与わり、7年後にアパートを、その10年後には一軒家をご守護いただき、父と、大きな身上を頂いた母を津軽から呼び寄せました。
東日本大震災のとき、自宅が全壊した高齢の信者さんに布教所へ来てもらいました。数日して、温かい物が食べたいと懇願されたもののどうにもできず、教祖におすがりしました。すると「支部、支部」という声が聞こえた気がして、支部管内の教会を訪ねて回ると、携帯用のガスボンベを譲ってもらい、調理することができました。
このたびの年祭活動が始まる前年、母が持病で入院しました。コロナ禍で面会禁止だったため、千羽鶴をお供えして入院の荷物に加え、毎日、母宛ての手紙を書いてお供えし、病院に届けました。後日、手紙を母に読み聞かせてくれた看護師たちが、自分の親を思って涙していたと聞き、教祖のお働きに感じ入りました。
夏のある日、当初は退院できる見込みだった母が出直しました。危ないと連絡を受けて駆けつけると、もう出直した後で、最期のひと言さえ交わせませんでした。父もすでに亡く、親孝行できなかったという思いから何の気力も湧かなくなり、教会の月次祭にも参拝できない自分は「もう駄目かも」と思いました。そんなとき「諭達第四号」が発布され、「ぢばを慕い親神様の思召に添いきる中に、必ず成程という日をお見せ頂ける」というお言葉に希望を頂き、立ち上がることができました。
生涯、教祖に喜んでいただけるよう、ひながたの道をコツコツとたどらせていただきます。