“時の表裏”に心澄まして – 成人へのビジョン 35
2025・5/21号を見る
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「そさう(粗相)は時の表裏で、神様のなさる事と思へば、腹は立ちやせん」
『正文遺韻抄』
お道の先人が記した言葉です。簡素な言い回しの中に、豊かな信仰の息吹を感じます。
粗相。それは、生活の中でふいに起こる小さな過ちや失敗。水をこぼす、食器を割る、子どもがおもらしをする、大事な場面で携帯が鳴る 私たちは、こうした粗相に思いのほか心を乱されます。「なんで」「何度言ったら」と口にしてしまう背後には、思い通りにならない苛立ちがあり、それはいつしか他者への不満となります。しかし先人は言います。「粗相は時の表裏である」と。
私はこの言葉にハッとしました。「その人の失敗だ」「あいつが悪い」と思いがちな私にとって、「時の表裏」(時の巡り合わせの一側面)という視座は、まるで新しい風に吹かれるような感覚でした。
ある出来事を「人の失敗」と見るか、「時の表裏」と見るか。それによって、心の反応も変わります。それが時の中でたまたま現れたことならば、誰かを責める必要も、自分を責める必要もない。ただ、神様の見せてくださった一瞬の移ろいに目をこらすだけです。
それは、「こうあるべき」という思いでいっぱいだった私の心に、「受け容れる広がり」をもたらします。腹を立てる代わりに、深呼吸をする。嘆く代わりに、手を差し伸べる。責める代わりに、相手を想像する。その積み重ねが、私たちの暮らしの風景を変えていく。
家庭という場は、人としての深みを育む場でもあります。美しい理念を語っても、日々の暮らしでふいにぶつかる粗相への反応に、私たちの「ほんとうの心」が現れる。だからこそ、信仰は家庭で磨かれ、同時に育まれるのでしょう。
腹が立つこともあります。そんなときこそ、「これは『時の表裏』かもしれない」と思い起こしてみる。すると、怒りの背後にある私の期待 「こうあってほしかった」「こう言ってほしかった」 に気づき、その期待が外れた痛みにも、自分でそっと手を当てるような優しさが芽生えます。
そうした小さな優しさの訪れに耳を澄ますこと。そうして心を潤し、今度はその優しさを日々の暮らしの中へ静かに注いでいく。それもまた、大切な信仰の営みではないでしょうか。
可児義孝・河西分教会長