教祖、お供させていただきます!- 三年千日 教祖と私
筒井善道(海神分教会前会長・72歳・千葉県船橋市)
4年前、教会の創立100周年を機に会長職を息子に譲りましたが、われわれ道の者に定年はありません。いまなお、にをいがけ・おたすけに励ませていただいています。
27年前の会長就任の際、親神様、教祖、そして信者さんに「おたすけはいつ何時、何をおいてもすぐに参ります」というお誓いをしました。いま振り返ってみて、私なりに守ってこられたのではないかと自己満足しています。
いつも「教祖、お供させていただきます!」と申し上げておたすけの現場に出向き、数々の不思議なご守護をお見せいただきました。余命を宣告された人にも必ず「たすかるよ」と伝えます。神の造られた体の寿命を人間には判断できないと、本人、家族を勇ませます。言ったからには誠真実を尽くします。たとえ願い通りにならなかったとしても、教祖は必ず一度や二度、医師も驚くほどの回復を見せ、家族に希望を与えてくださいました。「成って来るのが、いんねんの理」(明治27・5・31)というお言葉があります。結果は神様任せです。いつも教祖がおそばにいてくださるので、鬼に金棒です。
10年ほど前、こんなこともありました。緊急のおたすけの帰り、車に戻ると駐車違反の貼り紙がベッタリ。つい「おたすけのためなのに」と残念な思いが湧きました。途中で交番に寄り、違反切符の手続きをして車に戻ろうとすると、警官が追いかけてきます。よく見ると、若いころ青年会活動に共に励んだ教友でした。この人なら気持ちを分かってくれるだろうと事の由を伝えると、彼は深々と頭を下げ、「申し訳なかった!」と言ってくれました。私には教祖が教友を通じて「すまんかったなあ、ご苦労さん」と言ってくださったように思われ、胸がスッキリと晴れたものでした。
2024年4月から町会(約600世帯)の会長を仰せつかりました。私どもの町は古い歴史があり、そのため旧家が多く、互いに屋号(苗字に代わる通称)で呼び合う家が少なくありません。私はこの年祭の旬に、町内の誰からも「天理教の筒井さん」と屋号のように呼んでもらえるよう、毎日、教祖のお供をして、教祖に喜んでいただけるようつとめさせていただきます。