そばで教祖が喜んでくださる – 三年千日 教祖と私
長谷部康夫(綾瀬分教会長・59歳・埼玉県蓮田市)
三年千日の前年6月、突然、貧血で倒れた。検査してもらうと、脳に小さな出血の跡が見つかった。医師は、数年前のことだろうと言う。もし大きな出血なら危なかったとのこと。
数年前と聞いて「あっ!」と思った。父は50歳で出直している。その年を意識して生きてきた。51歳になったとき、何もなかったと胸をなで下ろしたが、実はあったのだ。代々の信仰のおかげで大難を無難にしていただいたことに、気づいていなかっただけなのだ。
さらに、胸部の検査では、肺にしこりが見つかった。悪性ではなさそうだが、数カ月後に再度検査するとのこと。わが家の入信は肺結核からである。三年千日を前に、家の信仰の元一日を振り返り、しっかり通る心づくりをさせていただくことができた。
年祭活動1年目、母が心筋梗塞で緊急手術をした。手術は成功したが、心臓が弱っているため、あと2カ月持たないと宣告された。
ところが、おさづけ、お願いづとめ、理づくりと努めるなか、1年半経ったいまでは、月次祭でおつとめ衣を着て勤めている。実に不思議なご守護を目の当たりにしている。
以前から、同じ市内の教友と最寄り駅で路傍講演をしてきた。この年祭活動にあたって、一人でもさせてもらおうと心を定めた。
一人だと勇気がいるが、心定めしたからには、たとえ1分でも、と駅前に立つ。回を重ねるうち、1分が3分、3分が5分、そして10分となり、勇んで実動している自分に気づいたとき、「をやのめにかのふたものハにち/\に だんだん心いさむばかりや」(十五 66)のお歌がふと浮かんだ。
神様の目にかなえば、日々だんだん心が勇んでくる。ならば、だんだん心が勇んでくるということは、神様の目にかなっているのだろう。誰にも相手にされず、たった一人で路傍講演をしていると思っていたが、親神様・教祖は、ちゃんとご覧くださっていたのだ。
人と比べることなく、自分にできることをコツコツ続けていれば、そばで教祖が喜んでくださる。
年祭を迎えたときに、もう少し、もう少し教祖にお喜びいただけるように歩ませていただきたい。