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落ちきったら澄みきる – 三年千日 教祖と私


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2025・8月号を見る

和田孝一(中宗分教会長・44歳・三重県いなべ市)

年祭活動が始まるとともに、さまざまな節をお見せいただくなか、次のお言葉を見つけました。

「教祖にこの道譲りて貰ろたのに、難儀さそうと言うて譲りて貰うたのやない、言うて居た日あるのに、何と呆けて居る。(中略)教祖という道内から潰して居る。世界の道で立ってあるか/\。学問で立つと思うか」(明治40・3・13)

会長就任3年目、知らず知らず教会運営にとらわれ、をやよりも知恵や立場にもたれている自分に気づきました。いま一度、身も心も裸になって教祖ひながたをたどりたい、一から心澄みきった布教師になりたいと思い、三年千日は毎年必ず単独布教に出る心を定め、昨年は妻と出させていただきました。振り返れば「神が連れて通る陽気」(明治30・12・11)に満ちた、幸せな時間を頂戴しました。

裸でたすけ一条に出てみる。食べられずとも、寝られずとも、自分はどうでも人さえたすかってくれたら結構と、出会った方々への祈りで毎日を満たしていきました。すると不思議がありました。

「この道は、常々に真実の神様や、教祖や、と言うて、常々の心神のさしづを堅くに守る事ならば、一里行けば一里、二里行けば二里、又三里行けば三里、又十里行けば十里、辺所へ出て、不意に一人で難儀はさゝぬぞえ」(明治20・4・3)

お言葉通り、道中飢えることなく、熱中症にもならず、時にはお風呂も頂いて、「一里行けば一里、二里行けば二里」、行った先々でをやが待っていてくださいました。たすけ一条の心ををやは必ずお受け取りくださる、その安心感を見つけさせていただきました。

道中、妻が言いました。「どん底にいると、本当のことが分かるね」。その通りだと思いました。落ちきったら心澄みきります。どん底には隔てがない、心の溝もない。だからほこりがない。心のもやが晴れ、自然と大切なことが胸に映ってきます。

教祖がせっかく残してくださった心澄みきる生き方、神様に受け取っていただける生き方、年祭のこの旬こそ、ひながたをたどらせてもらわねばもったいない。ひながたを歩める喜びを存分に味わいながら、残る期間を楽しんで通らせていただきたいと思います。