私たちは遊ぶために生まれてきた – 成人へのビジョン 40
2025・11/5号を見る
【AI音声対象記事】
スタンダードプランで視聴できます。
「人はなんのために生まれてきたのか」
古来繰り返されてきたこの問いに、私はこう答えたいと思います。私たちは遊ぶために生まれてきた、と。
「遊び」は、何かのためにするとは限りません。「社会性を育むため」「心を成長させるため」。そうした説明は、後づけではないでしょうか。それは豊かな副産物であっても、目的ではないはず。ただ楽しいから遊ぶ。人が遊びに身をゆだねるとき、そこに目的や意味を求めてはいません。遊びは、それ自体が完結した喜びの形です。そして、この「完結性」こそが、遊びが持つ豊かさの根源でもあります。
私たちの「なぜ? なんのために?」という問いは、どこまでも続きます。答えが見つかった瞬間、私たちは「分かった」と線を引く。その線を一歩踏み出せば、なお知られざる世界が広がっている。問いの連鎖に終わりはないのです。
けれど、遊びはその問いを遮断します。「なんのために遊ぶのか」と問うこと自体が、的外れだからです。遊びは“なんのために”を超えた行為。遊ぶために、遊ぶ。最も純粋に、いま、この瞬間を味わい、生きる行為。それは、勝手気ままを意味しません。ルールを分かち合い、他者と共に楽しむ。——その心に遊びが生まれる。私はそう思います。
「おふでさき」に、次の一首があります。
月日にわにんけんはじめかけたのわ
十四号25
よふきゆさんがみたいゆへから
親神様が人間を創造されたのは、私たちの陽気遊山が見たいゆえ。なんと明快なお言葉でしょう。
「遊山」を辞書で引くと、「野山に遊びに出かけること。また気ばらしに外出すること」とあります。私は、陽気遊山とは野山に留まらず、「親神様の懐住まいであるこの世界で、陽気に楽しく遊ぶこと」と理解しています。与えられた生を存分に味わい、豊かに生きる。特別な舞台はいりません。家庭、学校、職場——日常のただ中に、その舞台は広がっているのです。
親神様は、子供たちが仲良く陽気に遊ぶ姿を見て、共に喜ばれます。人の喜びが神の喜びである。親子の心が通い合う、神人和楽の世界。だからこそ、私は思うのです。私たちは遊ぶために生まれてきた、と。
80億の人間が、仲良く、幸せに遊ぶ。
そんな遥かな道程を、私たちは歩んでいるのです。










