教祖が代わりに – 三年千日 教祖と私
三ツ井 倉三(東大館分教会長・55歳・秋田県大館市)
年祭を目前に控えたいま、教祖には大変なお疲れを頂いているのではないかと、ただありがたく、もったいない思いでいます。
25歳の夏、秋田県からおぢばを目指し、私は自転車のペダルをこいでいました。”一に勢い”で出発したものの、連日の暑さと野宿に疲れ果てた4日目、知人の厚意で新潟の教会に泊めていただき、気持ちよく床に就きました。
翌日、朝づとめで逸話篇を拝読した際、その日は「一六二 親が代わりに」のお話でした。遠方から帰ってくる子供たちが全く疲れを感じず意気揚々と帰参する日は、決まって教祖が代わりにお疲れくださっていたという件を拝読したとき、私は参拝場の隅で小さくなっていました。「ここまで自分の力で進んできた」と大きな勘違いをしていたことに気づき、恥ずかしさのあまり、すぐ教会を出発しました。その後、予定より2日早くおぢばに到着しましたが、教祖殿でぬかずいたまま頭を上げられなかった、そのときの体感が、30年経ったいまも残っています。
教会長として迎えた前回の年祭活動は、自身の心定めにとらわれ、教会につながる方々に寄り添えていなかったと反省しています。教会が水害に遭ったり、私が入院、手術したりと、たび重なる節の中も、教祖はたくさんの喜びを与えてくださいました。
このたびの年祭活動でも、天理教教会長として地域の活動に関わるなかで、不思議な出会いを数多く頂き、先人の蒔かれた真実の種の芽吹きを目の当たりにしました。この3年間は衣食住の慎みを心がけ、子供たちにとっては、たんのうの難しさを知る期間になっていると思います。両親は現在”兄弟教会”の会長夫妻としてつとめています。子供の夭折のいんねんを悟って入信した初代の元一日を思うとき、親子孫そろって年祭を迎えられる喜びは言葉にできません。
教祖は、この三年千日の私どもの歩みにおいても、代わりにお疲れくださっているような気がします。そのことへの感謝を込めて、教会に集う人々と共に、ひながたを手本として次なる目標に向かう姿をご覧いただきたいと思います。教祖には、遠路お導きくださいますようお願い申し上げます。