教史を知ることの大切さ – 視点
2025・12/10号を見る
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知り合いの教会長夫人から「最近、教祖は教会をお許しになってはいなかったと主張する若い子がいるのですが、どう思いますか?」と尋ねられたので、「多分その根拠は教祖伝でしょう。決して、そのようには書かれていないのですが、読みようによっては、そう理解してしまう人がいるようです」とお答えした。
『稿本天理教教祖伝』を拝読すると、中山眞之亮・初代真柱様から「教会本部をお許し下された上は、いかようにも親神様の仰せ通り致します」と願うと、親神様から「何か願う処に委せ置く」との「おさしづ」があり、このお言葉を受けて初代真柱様が、教会設置をお許し下されたについてお礼言上したという経緯が記されている。この「おさしづ」を取って、親神様は教会設置には消極的であり、積極的にお許しになったわけではなかったと解釈する人があるようだ。
しかしそれが誤解であることは、その後の史実を知れば明らかである。
明治20年陰暦正月二十六日、教祖が現身をかくされてのち、お道は存命の理を頂いて全国に伸展していく。そうしたなか、教祖1年祭の中断を節に、天理教会設立について親神様にあらためて伺うと、「どんな道も連れて通ろう」(明治21年3月9日)との力強いお言葉があり、初代真柱様は一時的に東京に出願することを決心されて上京。願い出は速やかに認可されて教会本部の設置が叶った。その後、「ぢばに一つの理があればこそ、世界は治まる」(同年7月2日)と、教会本部を直ちにぢばへ移すようにとの親神様の強いお急き込みを受けて、同年、ぢばへの移転を果たした。
教祖伝だけを読んでいると、教祖は一貫して教会をお許しにならなかったように思えるかもしれないが、教史を知れば、それは人々が真柱の理を心に治め、神一条の精神を定めることを優先して仕込まれた成人の過程であったことが分かってくる。そして存命の理を示され、ぢばの理が治まって、初めて親神様の思召に適うお道の教会が誕生したのである。
このように本教の歩みは、教祖のお姿があった時代も、現身をかくされてのちの時代も、教祖にお導きいただいて成り立ってきた道であることに変わりはないことから、教史の中に思召を見いだす視点を持たないと理解が表面的なものに止まってしまうきらいがあるように思う。教祖140年祭を前にしたいまの時期には、『稿本天理教教祖伝』をあらためて読み深めさせていただきたいが、併せて『稿本中山眞之亮伝』を読ませていただくこともお薦めしたい。
(諸井)












