“人間心の道”からの大転換 さんげを通して信仰を深め 板倉タカ(上)- おたすけに生きた女性
2025・12/10号を見る
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豪放磊落な性格で、波乱万丈の半生を送ったタカ。本人いわく、結婚歴は7回半で、「半とは、結納は受け取ったが嫁にいかなかった」と笑って話した、との記録もあるという
今回紹介するのは、板倉タカです。明治元(1868)年、香川県三豊郡粟島村(現在の香川県三豊市詫間町粟島)に住む父・板倉礼治、母・加久の長女として誕生しました。15歳のときに行商に出て以降、瀬戸内海の島々をはじめ、北海道、満州、マレー半島などを渡り歩きました。商売を中心にさまざまな仕事に従事し、その間、内縁関係も含め7度にわたって結婚したと伝わっています。44歳のとき、母の病をきっかけに入信し、マレー半島で布教に励み、新嘉坡教会を設立しました。

各地を商売に渡り歩き
タカは、塩飽諸島の西に位置する粟島で生まれました。江戸時代から明治時代にかけて北前船の寄港地として栄えた島です。生来勝ち気な性格で、妹と弟がいました。6歳から10歳まで普通学を修め、幼少期は農作業を手伝い、15歳のときに行商に出ます。17、18歳になると帆前船に乗って、瀬戸内の島々を木綿の商売に渡り歩きました。


20歳のとき、商売の代金を受け取りに馬関(現在の山口県下関市)を訪れた際、北海道へ行けば大儲けできると聞き、反物を持って函館へ渡ります。しかし聞いていたほど儲からず、今度は根室で昆布の商売や漁業を始めますが、そこでも思わしい成果は得られないまま、故郷へ帰って反物を売り歩きました。
明治27年に日清戦争が始まると、広島・宇品は軍隊の輸送地になりました。商機と見たタカは宇品へ赴きますが、またも儲かりませんでした。次に神戸へ、そこから再度北海道へ渡り、日高、十勝、釧路方面で働きます。十勝では5町歩の田地を女一人の手で開墾し、釧路では漁業に励みますが、いずれも大成せず、再び故郷へ帰りました。こうした男勝りの生活を送るうちに、タカの度胸は一層培われていきました。
同38年、日露戦争が終結すると、多くの日本人が満州へ渡りました。そうしたなか、大連のパン屋で30代女性の求人があると聞き、タカの心は躍ります。勧められるまま大連へ渡ると、わずかな地代で土地が手に入り、結婚して煮売屋を開きました。店は一時は大変繁盛しますが、やがて経営困難に陥ります。やむなく従業員を連れてロシアへ行こうと考え、旅行免状を手に入れようと山東省の芝罘や營口へ赴きますが、下付されませんでした。このとき、營口でシンガポールへ行ったらいいと助言してくれる人があって、すぐにシンガポール行きを決意します。
帰国していた夫にそれを伝えると、夫は急いで戻って来て危険だから中止するよう忠告します。しかし、すでに乗船の手配を済ませていたタカは夫の厚意を退け、そのうえ心配する夫を同行させてしまうのでした。
自身の通り違いを自覚し
夫の忠告は正しく、途中寄港した香港では散々な目に遭い、シンガポールへ着くと、聞いていたこととすべて反対で、一時は身を捨てるよりほかないと思い詰めるほどでした。連れてきた従業員たちとは泣く泣く別れ、夫と共にマレー半島南部のマラッカへ、さらにペラ州へ移り住みます。そこへ母親が病という知らせが届き、タカは早々に帰郷しました。
母親の病状は心配したほどではなかったものの、タカが故郷を離れている間に、妹は肺病で亡くなり、弟は行方不明になっていました。なんとか母の病気を治したいと思っていたところ、旧知の横山豊吉が天理教の教師になっていると聞き、おたすけを願います。
横山はタカに、「かしもの・かりもの」「八つのほこり」「たんのう」「ひのきしん」「いんねん」の教理、「ぢば一つの理」を説いて聞かせます。そのどれもが、タカの心の奥底に響くのでした。心の中で大きな転換が始まり、神様に対するさんげと感謝の念が胸に溢れてきました。
タカは15歳から44歳までの半生を振り返り、「20有余年間、随分活動をしてみたが、その活動した割合に成功はせぬ。否、成功どころか、事々皆不成功に終わっているのは、欲と高慢の勝手な人間心の道で、押し通してきたから、全然神様の思召に適わぬ。今から考えてみれば、失敗に終わるのは当然だ。何も不思議はない」「勝手気ままから、先夫を捨て、後夫をも捨てて、7人の夫を取り替えて申し訳がない」と涙ながらに告白しました。自身の通り違いを自覚し、そのことをさんげするべく信仰を深めていくのでした。
明治44年、タカは秋季大祭に帰参する横山に同行し、初めておぢばへ参拝します。滞在中、初席を運び、おさづけの理を拝戴しました。粟島に戻ってからは、島に教会を設立したいという横山と共に、約60日間、夜の目も寝ずに教会設置のために奔走しました。
たまへ様によるご慰労
翌45年1月、タカは再びマレー半島へ渡り、ペラ州トランソンの知人女性を訪ねます。自身もいつか教会を設立したいと思い始めたことから、知人宅に同居して働き、その費用を捻出しようと考えたのです。しかし知人に同居を拒まれたため、バガンダトーで草小屋を高い家賃で借りて布教を始めます。やがておたすけを受けてくれる人もでき始め、それからスンカイへも布教に赴きました。
そのころ、タカは夫にも熱心に信仰を勧めました。夫は素直な人でしたが、どうしても信仰には賛成してくれず、勧めれば勧めるほど反対し、大正3(1914)年、帰国して身を患い、出直しました。夫が教えを聞き入れてくれずに出直したことについて、タカは「皆自分の過ちである」「自分のつけたいんねんの現れである」と受けとめ、かつて自身が勝手気ままをし、先夫に反対し、その要求も受け入れず、幾人も振り捨ててきたからであると、何度もさんげの言葉を繰り返すのでした。
同5年、タカは教祖30年祭に帰参します。その際、初代真柱夫人・中山たまへ様が遠来の信者を慰労しようとタカをお呼びになり、その数奇な足跡をお聞きくださいました。タカの喜びは言葉で言い表せないほどでした。 このとき、たまへ様からさまざまなお言葉を賜ります。特に、「どんな悲しいことや苦しいことがあっても、精神を倒すやない。案じるのやない。精神を倒さず案じずに、神様に凭れて、尽くし運びをしてたならば神様はどんなお働きも下さる」との仰せがタカの心に強く刻まれました。苦難に直面するたびに、このお言葉が心に浮かび、心を強く保つことができたのでした。
さらに「ぢばへ帰ったときは、いつ何時でも遠慮はないから、このもとへ訪問されよ」との手厚いお言葉を下さり、布教地へ戻ってからも婦人会報や布教費をお送りくださったといいます。タカはご慈愛に感泣し、ご厚恩に報いたいと強く思うのでした。
こうして半生を活発に駆け巡ってきたタカは、母をたすけたいとの思いから、道の教えを聞き分け、人生が大きく転換していきました。この後、教会設置を目指して再びシンガポールへと向かいます。次回は、タカが苦難の道を乗り越え、おたすけに生きる姿を見ていきたいと思います。(つづく)
文・松山常教(天理教校本科実践課程講師)















