鮮明な輝きに照らされて – 成人へのビジョン 43
2026・3/11号を見る
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やまのなかでもあちこちと
九下り目八ッ
てんりわうのつとめする
このときの「てんりわう」の手振りは、天を指し、上下に円を描きます。「見事な手だよ」。25歳の私に向かい、恩師は実に晴れやかな表情で言いました。それは、何でもない会話でしたが、私の心をとらえ、離すことがありません。
また、天理大学の学生だったころのこと。私は「教義英語」という科目を履修していました。その日の講義内容は、『稿本天理教教祖伝』第十章「扉ひらいて」でした。英語の教祖伝を読み上げた先生は、最後にもう一度、章題である「扉ひらいて」を口にし、少し間を置いてこう言いました。「What a beautiful metaphor!(なんと美しい比喩!)」。それは、あらかじめ用意された言葉ではなく、そのときに生まれたような瑞々しさを湛えていました。
正直に言うと、私はそれまで、「てんりわう」の手振りを「見事な手」と思ったことはありませんでした。「扉ひらいて」に「なんと美しい比喩!」と感嘆したこともありません。いわば、それを味わうことなく、素通りしていたのです。その一方で、まるで宝物を受け取るように、心躍らせる人がいた。その姿は、歳月を経たいまも鮮明に覚えています。
その鮮明さは、私に不思議な変化をもたらしました。気づけば、それまで漫然と振っていただけのおてふりに、恩師の目に映る「見事さ」を見ようとし、文字を追っているだけだった原典や教祖伝に対して、知的な理解を超えた響きを感じ取ろうとする私がいたのです。他者の感受性にふれ、それまで閉じていた世界への入り口が姿を現した。それは、身体と言葉、その両方へと心が開かれていくような感覚。見慣れたものだからこそ、見えていなかった。それ以降、私は朝夕のてをどりまなび、「おふでさき」拝読がとても楽しみになりました。
私は思うのです。そうした回路は出会いによって新しく創られたものではない、と。きっと、もともと自らの内にあって眠っていたものが、他者からの呼びかけ 「見事な手だよ」によって、呼び覚まされたのだと。
私はまだ、その「見事さ」を知らない。美しさとも出会えていない。けれども、確かにそこにあって、それは目をこらせば見え、耳を澄ませば聴こえてくるに違いない。
あの鮮明さの内には、そんな希望に満ちた予見が広がっていたのです。
可児義孝・河西分教会長









