ご恩報じを念じ親元へ運ぶ真実 – おやのぬくみ
教祖は、日夜、お屋敷へ寄り来る人々に教えを伝えられるなか、自らおたすけに出向かれることもあった。『稿本天理教教祖伝逸話篇』102「私が見舞いに」によれば、河内国教興寺村の松村栄治郎の妻さくの見舞いに赴かれている。
明治15年6月18日、教祖は、まつゑの姉に当たる松村さくが痛風症で悩んでいると聞かれて、「姉さんの障りなら、私が見舞いに行こう」と仰せになり、飯降伊蔵ほか一名を伴い、赤衣を召し人力車に乗って、国分街道を出かけられた。そして三日間、松村栄治郎宅に滞在され、その間、さくを自ら手厚くお世話なされた。
その後、「三日過ぎたら、おぢばに帰ってくるように」との教祖のお言葉に従い、さくは同月22日に駕籠に乗っておぢばへ帰り、半月余りの滞在ですっきりご守護いただいた。
松村さくは、髙安大教会初代会長・松村吉太郎の母である。実妹のまつゑが教祖の長男・秀司に嫁していることから、中山家とは親戚に当たる。とりわけ、教祖は「あんたは4代前の母の生まれかわりや。この世で母と呼ぶことはできんので、姉さんと呼ばしてもらうのや」と仰せられ、実の親子にも似た情愛を注がれたという。
ところで、さくが教祖に直々おたすけいただいたのは、これが初めてではない。明治4年には、重い「たちやまい」に苦しんでいたところをおたすけいただき、夫・栄治郎と共に道の信仰に入った。
以来、頻繁におぢばへ帰っては、教祖の膝元で親しく教えを賜るのを何よりの楽しみとし、長いときには20日、30日と逗留することもあった。滞在中は、中山家のご家族と寝起きを共にし、ご家族同様に接していただき、お育ていただいたといわれる。
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髙安大教会では毎年、教祖がお入り込みになった6月18日を記念して、おぢばでの伏せ込みひのきしんを続けている。その底流にあるのは、教祖自らお出張りくだされた事実は、たすけていただいた感激とご恩報じの心から、お屋敷へ足しげく通った栄治郎・さく夫妻の真実が、親のお心に適った証しである、との信念からだという。
「をやの心と、をやの元に運ぶ私たちの真実の心と、この心とこの心が一つに結ばれた時にこそ、不思議な自由の御守護も頂け、そうして、私たちの信仰は一歩一歩と進ませて頂くことになる」(「教祖お入り込み百二十周年一万人お礼団参」における中山善衞・三代真柱様のお言葉)信仰の元一日を忘れず、日々ご恩報じを念じて親の元へ運ぶ心こそ、ご守護を頂く元にほかならない。