参考館「マンデートーク」ダイジェスト – 優れた造形の「海獣葡萄鏡」
日野宏 天理参考館学芸員
天理参考館(春野享館長)は毎週月曜日、展示解説「マンデートーク」を開催。6月28日には、日野宏学芸員が「天理市杣之内火葬墓出土の海獣葡萄鏡」と題して、精巧な造形で知られる「海獣葡萄鏡」について解説した。その内容をダイジェストで紹介する。
親里ラグビー場のバックスタンド側にある杣之内火葬墓は、奈良時代8世紀のものと推定される。この辺りは古墳時代、古代豪族の物部氏が治めていた。
物部氏は、古代日本の最初の統一国とされるヤマト王権の軍事面を司っていた豪族で、天理市の杣之内、三島などにまたがる布留遺跡と呼ばれる地域を拠点に栄えた。その証拠に杣之内地区では、5〜6世紀にかけて県内トップクラスの大きさを誇る古墳が次々とつくられた。
物部氏は奈良時代に入っても、その勢力を保ち、7世紀に姓を「石上」と名乗るようになった。一族の血を受け継いだ石上麻呂は、平城京で左大臣にまでのぼっている。その息子・乙麻呂は、中納言につき歌人や学者として活躍。孫の宅嗣は大納言で、日本初の公開図書館「芸亭」の創設と、それぞれ名を残している。
杣之内火葬墓が築かれたのは、彼らが活躍した時代と重なる。発掘の結果から、この火葬墓は直径11メートルの半円形を呈し、その中央に火葬骨と銀製のかんざしを入れた木櫃が納められていることが明らかとなった。
当時、火葬の風習は限られた階層の人々の間でしか行われておらず、なかでも杣之内火葬墓は高度な工法によってつくられた、極めて大規模なものだった。
皇子クラスの精巧な鏡
この杣之内火葬墓から副葬品として出土したのが「海獣葡萄鏡」だった。同品は、中国で隋(6〜7世紀)、唐(7〜10世紀)の時代につくられた鏡で、葡萄の蔓が全面を覆い、実がちりばめられている。また、中心には「狻猊」と呼ばれる中国の伝説上の生き物が鎮座しており、その周りにも4匹の狻猊が、さらには羽を広げた鳥や蝶があしらわれるなど、非常に優れた造形をもつ。
一般的な「海獣葡萄鏡」の多くは白銅色である。本品を分析した結果、素材は同じく白銅質であったが、表面を薬品処理して黒くしていたことが分かった。意図は不明だが、1,000年ほど土の中に埋もれていたにもかかわらず、ほとんど錆びていないことから、防錆効果があったと考えられる。
「海獣葡萄鏡」は、奈良時代の日本でもつくられたが、粗いつくりだった。一方、本品は7〜8世紀ごろの皇子の墓とされる高松塚古墳の鏡に匹敵するほど精巧であることから、遣唐使が持ち帰ったものと考えられる。
高品質かつ希少性も高い「海獣葡萄鏡」が杣之内火葬墓に納められていたこと、また同時期の高松塚古墳と同じような工法が用いられていること。このような情報から、同墓は奈良時代の最高権力者であった石上一族の墓だと推測できる。