日常を旅するように – 成人へのビジョン 39
2025・10/8号を見る
【AI音声対象記事】
スタンダードプランで視聴できます。
おぢばから北海道へ帰る機内。前の席から若者たちの弾む声が聞こえてきます。「北海道、楽しみやなあ」「ラーメンと寿司は外せんで」。期待に満ちた声は、これから始まる旅への高揚を、そのまま映しているようでした。
同じ北海道へ向かう私。けれど、心境は違います。私を待っているのは日常です。行き先は同じでも、旅と生活とでは見える風景が異なります。「幸福とは、旅の目的地のことではなく、旅の仕方のことである」。かつて出合った言葉が、ふと胸に浮かびます。だとすれば、北海道そのものに幸福があるのではない。旅行であれ生活であれ、幸せは私たちの歩み方に懸かっているのです。
人々の関心は、いつの間にか「非日常の眩しさ」に引き寄せられてはいないでしょうか。映画やドラマは、巨悪や事件、病に立ち向かう姿を描き続け、SNSには“映える”画像が溢れています。けれど、そうした刺激を浴び続けた感性は、日々の静かな輝きを見落としてしまうかもしれません。
現実の私たちの営みは、刺激にばかり彩られてはいません。昨日と今日が大差なく続き、同じ道を歩き、同じ人と顔を合わせる。その繰り返しを「日常」と呼びます。しかし耳を澄ませば、その中にも神様の息づかいが聞こえてくるはずです。
人は何げない日常の風景に、深く心を動かされることがあります。子供の笑顔や夕暮れの陽が、不意に胸を打つ。そこに非日常の派手さはありません。けれど、虚心に向き合うとき、そこには確かに感動や不思議がにじんでいる。澄んだ感性は、日常の神秘を映し出すのです。
私は思います。劇的な“ご守護”のみを求める信仰は、親神様の無限のお働きを前に、かえって私たちを鈍感にさせると。「節」は大きな転換点であり、私たちを新しい一歩へと導きます。けれど節は、それ自体が尊いのではありません。節によって開かれる新しい景色。その持続こそが新しい「日常」を生む。更新された日々のただ中に、私たちは親神様の深い思召とご守護を感得するのではないでしょうか。
そんな思いを巡らせ、私は旅行をうらやむ気持ちをほんの少し手放します。生活に戻ることもまた、旅なんだ。どこへ向かうかではなく、どう歩むか。
本当は、私たちが生きているこの道そのものが、奇跡の旅路なのです。
可児義孝・河西分教会長