BGMに耳を澄ませて – 成人へのビジョン 41
2025・12/10号を見る
【AI音声対象記事】
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「お父さん、トイレに連れてって」。私は眠気と必死に戦い、娘を抱えて廊下を走ります。娘もまた、恐怖と戦っていました。どうやら夜の廊下には、彼女にしか見えない何かが潜んでいるようです。
子供たちは最近、アニメに夢中です。そこに登場する「鬼」や「呪い」が、現実にまで忍び込んできました。楽しく遊んだ廊下も、夜には別の表情を見せます。変わったのは光量だけではない。“世界の気配”が一変したのです。娘は物音や影に不気味さを感知しています。
同じ空間が、人の心理によって違った様相を見せる。それは、映画のBGMのようです。たとえば同じ戦闘シーンでも、流れる音楽によって意味が変わります。悲しい旋律なら「望まぬ戦い」、激しい曲なら「手に汗握るバトル」。現実の私たちもまた、それぞれの心に固有の音楽を響かせながら日々を生きているのではないでしょうか。
その旋律は目に見えませんが、確かに世界を染めています。トイレへ向かう娘の足をすくめているのは、彼女の心に鳴り響く不穏なBGMです。それは目に見えなくも、確かな力を持ち、世界の色合いを変えてしまう。私たちは、ただ“無加工の現実”を生きているのではありません。心に流れる音が、世界にひそかな色を差し込んでいる。そういう意味で、私たちは現実以上に濃厚な色彩を生きているのです。だからこそ私は、自分の内に流れる旋律に耳を澄ませたい。無意識のうちに響く、私の生を彩るBGMの音色に。
思うに、私たちの信仰は、強力な音楽で無理やり人間性を変えるものではありません。むしろ、自らの内に流れるBGMに気づき、心の癖や性分が世界を歪めていないかを見つめ直すものです。それは、心を澄ますこと。そして私たちは、教祖から流れる音色(教え)に、自身の生き方を合わせていくのです。
私の好きな言葉に、「太鼓の音に足の合わぬものを咎めるな。その人は別の太鼓に聞き入っているのかもしれない」(ソロー)があります。信仰のリズムは、聞き慣れないものかもしれません。はじめは戸惑い、うまく乗れないこともあるでしょう。しかしそれは、私たちの日々に新しい命を吹き込んでくれます。
たとえば、「娘を抱きかかえてトイレに走る、この日々こそが奇跡なんだ」と、気づかせてくれたりするのです。
可児義孝・河西分教会長













