最後の御苦労――真心を尽くしてお仕えし – おやのぬくみ
明治19年2月18日(陰暦正月15日)、心勇組の信者が大勢お屋敷へ参詣に来て、十二下りを勤めたいと願い出た。目下、警察の厳しい取り締まりがあるからと、お屋敷では申し出を断ったが、上村吉三郎講元ら一部の・・・
明治19年2月18日(陰暦正月15日)、心勇組の信者が大勢お屋敷へ参詣に来て、十二下りを勤めたいと願い出た。目下、警察の厳しい取り締まりがあるからと、お屋敷では申し出を断ったが、上村吉三郎講元ら一部の・・・
『稿本天理教教祖伝逸話篇』29「三つの宝」によれば、あるとき教祖は、のちの本席・飯降伊蔵に掌を拡げるよう促され、籾を三粒持って、「これは朝起き、これは正直、これは働きやで」と仰せになり、一粒ずつ伊蔵の・・・
立教からおよそ10年。「貧に落ち切れ」との親神様の思召により、教祖は中山家の家財道具を施し尽くし、日々の暮らしぶりは赤貧洗うがごとしであった。その振る舞いは世間の嘲笑の的となり、一時は誰も中山家に寄り・・・
教祖がお生まれになった前川家は、おぢばから南へ約3キロ、現在の天理市三昧田町にある。当時の地名は大和国山辺郡三昧田で、東に大和青垣の山並みが連なる閑静な農村だった。 ご誕生は、寛政10(1798)年4・・・
立教から約25年、50年のひながたの中間に当たる文久、元治のころ、教祖にたすけを願い出る人々が増え始め、お屋敷の建物の手狭さが目立つようになった。 当時、母屋はすでになく、古い粗末な8畳と6畳の二間が・・・
明治15、16年は、官憲によるお屋敷への迫害干渉が最も苛烈を極めた時期であった。中山眞之亮・初代真柱様は、その手記の中で「此時分、多きときハ夜三度昼三度位巡査の出張あり」「眞之亮ハ、十五、十六、十七ノ・・・
中山家の表通常門、通称「中南の門屋」――。 明治8(1875)年、教祖は、つとめ場所の北の上段の間から、ここへお移りになった。以来、16年に御休息所が竣工するまでの間、門屋の西側の10畳の部屋をお居間・・・
教祖が現身をもってお働きくださっていたころ、教祖は、お屋敷へやって来た信者に対して、手ずから拵えられた品をお与えになっていた。お渡しになった詳しい経緯は不明であることがほとんどだが、桝井家が頂いた犬の・・・
先人が残した書き物の中に、教祖のご幼少のころの逸話が記されている。 「御生れつき御記憶が宜しくて、一度見たり聞いたりした事は、よく御心に納めて御忘れになりませぬ。(中略)飛ぶ鳥を見ては、そのすがたをき・・・
遠州(現・静岡県)出身の諸井国三郎が初めておぢばへ帰ったのは明治十六年二月十日のこと。これより十日前、咽喉気の患いから危篤状態に陥った二歳の娘・甲子をおたすけいただいたことへのお礼参りであった。 『稿・・・
教祖は、日夜、お屋敷へ寄り来る人々に教えを伝えられるなか、自らおたすけに出向かれることもあった。『稿本天理教教祖伝逸話篇』102「私が見舞いに」によれば、河内国教興寺村の松村栄治郎の妻さくの見舞いに赴・・・
慶応2(1866)年、教祖は山中忠七に「永代の物種」をお授けになった。『稿本天理教教祖伝逸話篇』(15「この物種は」)には、そのときの様子が詳しく記されている。 教祖は、すでにお寝みになっていたが、「・・・