天理時報オンライン

心の底からたすかりを願い、口と心と手のそろった誠の心で


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田中詩恩(西日本分教会長後継者・25歳 天理市)

私は天理教校学園高校、天理教校専修科、そして本科実践課程に学び、卒業後は台湾伝道庁で1年間青年づとめをさせていただきました。現在は、再びおぢばにお引き寄せいただき、本科実践課程で職員として勤めています。

私が中学2年生のとき、前会長だった祖父が出直し、母が会長を継ぐことになりました。それを機に家族で教会に移り住み、それ以降というもの、母は教会長としてとにかく一生懸命でした。口を開けば、いつも信者さんのことや、おたすけの話ばかりで、毎日明るく、楽しそうでした。私はといえば、母との間に普通の親子の会話がほとんどなくなったうえ、ほぼ同時に住み込みさんができ、他人と一つ屋根の下で生活するという、それまでと異なる環境についていくのに必死でした。

1年後、福岡の自教会を離れて、教校学園高校に進学しました。教祖百三十年祭へ向けての年祭活動がスタートした年で、私は三年千日の期間をおぢばで過ごしました。ご発布いただいた「諭達第三号」も毎日拝読し、暗唱できるくらいになりました。しかし当時の私は、教祖年祭といっても、大きな月次祭があるんだくらいにしか思っていませんでした。ましてや、どのような心で神様と向き合いお道を通らせていただけばいいのか、と考えることはありませんでした。

今回、三年千日の心定めをするうえできっかけの一つになったのが、台湾伝道庁で青年づとめをさせていただいたときの経験です。台湾は、人々の生活に宗教が深く根づいた所で、信仰熱心な人が多いように感じました。天理教の信者さんも同様で、朝づとめに日参される方や、毎月欠かすことなくお供えを届けてくださる方もおられ、月次祭には大勢の信者さんが参拝に来られていました。

伝道庁に着任して初めての月次祭のときのこと。祭典講話をつとめた女性布教所長が、厳しい口調で「おつとめの際、自分の役割が終われば席を立ち、トイレに行ったり外でしゃべったりする人がいるが、本当に全身全霊で勤めているのか。本当にたすかりを願って勤めているのか。神様のお話をしている最中に寝たりする人は、全身全霊で聞いているのか。私は疑問に思う」と話されました。また、あるときは「おたすけするに当たって、海外では言葉の壁がある。日本では言葉は通じるが、時にはただ言葉を口に出しているだけで、相手の心には何も伝わっていないこともある。逆に海外では、なんとか伝えようと必死に言葉を探したりジェスチャーを交えたりして一生懸命さが相手に映り、たすかりにつながる」とお話しされました。

まるで私に投げかけられた言葉のようで、身の引き締まる思いがしたのを今でも忘れられません。口だけではなく、本当に心の底からたすかりを願って真剣におつとめを勤める。そこに初めてご守護が頂けるということを台湾で学びました。

おぢばで勤めている現在も、たびたび母から連絡が来て、教会につながる信者さんや、おたすけ先の身上・事情の悩みや現状を話してくれます。これまで私は、それを「はい、はい」と返事はするものの、どこか上の空で聞いているところがありました。

しかし、今回ご発布くだされた「諭達第四号」には、「身上、事情で悩む人々には、親身に寄り添い、おつとめで治まりを願い、病む者にはおさづけを取り次ぎ、真にたすかる道があることを伝えよう。親神様は真実の心を受け取って、自由の御守護をお見せ下される」と示されていました。これを見たとき、私の頭の中に、台湾で聞いた話がぱっと浮かびました。そして、教会長後継者の私は、自教会から遠く離れていて直接おたすけに携わることはできなくても、このおぢばで、真実の心で一生懸命にたすかりをお願いさせていただかなくてはと思いました。

『正文遺韻』(諸井政一)に、次のような一節があります。

まことゝいふは、くちと、心と、手と、この三つが、そろふて、しんのまことゝいふ。

心の底から人のたすかりを願って、それを行いに移していく。それが本当の「誠」だ、ということだと思います。この三年千日は、親神様に受け取っていただけるような「口と心と手のそろった誠真実の心で通らせていただく」ということを私の心定めとし、少しでも成人の歩みを進め、教祖にお喜びいただきたいと思います。