「姿を新たにする」とき – 視点
新型コロナウイルスの感染が国内で初めて確認されて3年になる。政府は5月8日、新型コロナの感染症法上の扱いを「2類相当」から、季節性インフルエンザと同じ「5類」へと引き下げた。現在は観光地や飲食店、スポーツ観戦などでも大勢の人が集まり、人流や経済活動も元に戻りつつある。
そんな世の中の様子を見ると、ある既視感を覚える。12年前に起きた東日本大震災である。
当時、その未曽有の危機に、日本全体が「絆」という言葉で一つになった。筆者自身、被災地にあって助け合いや人とのつながりの大切さ、物の有り難さに気づかされた。その「気づき」は、教訓としていつまでも続くものと思ったが、12年経ち、人々の心にどれくらい残っているだろうか。物を大切にする意識、助け合いの精神はどうだろうか。
東日本大震災のような予期せぬ出来事があると、「世の中が一変する」「人々の価値観が変わる」「ポスト○○時代の生き方」といった話が出る。ところが現実には、そのような変化はなく、概ね元に戻る。今回のコロナ禍はどうだろう。
「諭達第四号」に、「頻発する自然災害や疫病の世界的流行も、すべては私たちに心の入れ替えを促される子供可愛い親心の現れであり、てびきである」とある。いずれコロナが収束した後も、ただコロナ前の生活に戻るだけで終わってはならない。
いま一度「復元」の精神を思う。本教は「革新」の時代を経て、戦争の終結とともに復元に向かった。復元は復旧ではなく、教えの元へ立ち返ることである。中山正善・二代真柱様は、その信念を「決して古い姿にかえすのではない。それは心を元へかえすと共に、姿を新たにする事である。それはたゞ一條に信仰生活を以て喜びとし、身も心も教祖にお教え頂いた精神に浸つて、陽気ぐらしをさして頂く事である」と仰せられた。
「ふしから芽が出る」。コロナの収束とともに、いま全教が陽気ぐらしへと一歩近づく「姿を新たにする」芽を出すときであろう。
(加藤)