立教185年春季大祭 中田表統領神殿講話(要旨)
教祖年祭の意義確かめ三年千日へ心づくりを
既報の通り、教祖が現身をかくされた明治20年陰暦正月二十六日に由来する、立教185年の「春季大祭」が1月26日、中山大亮様を祭主に執り行われた。ここでは、中田善亮表統領の神殿講話の要旨を掲載する。
いまこそおさづけの取り次ぎを
明治20年陰暦正月二十六日、教祖は、私たちが成人の歩みを一層進めることを急き込まれる、子供可愛い親心から現身をおかくしになった。いま、お姿を拝することはできないが、教祖はご存命であり、私たちにお掛けくださる親心やお働きは何一つ変わらない。この安心感こそが、この道を信仰する大きな原動力だと思う。私たちがお凭れする心でいれば、教祖はいつも温かく私たちに寄り添って、この先もずっとお働きくださるのだ。
おさづけの理は、現身をおかくしになって以降、願い出る者に広くお許しくださるようになった。おさづけの理は「道の路銀」とお聞かせいただくように、しっかりと取り次ぎ、おたすけをさせていただくことで、長く道を通ることができる。素直に教祖に凭れ、懸命におさづけを取り次ぐことによって、成人を志す気持ちも自然と生まれてくる。
真柱様は、年頭あいさつの中で、「与えられた条件の中で、やらなくてはならないことをいかに進めるかということを、いまの時旬を考えて、それぞれのつとめを果たしていっていただきたい」と仰せられた。
コロナ下で思うようにおさづけを取り次ぐことができない状況はあるが、周囲を見渡せば、取り次ぐ機会はいくらでもあるはずだ。コロナの事情のただ中だからこそ、全教ようぼくは、もっとおさづけを取り次がせていただかなければ、親心にお応えできないと思う。
ひながた実践の心を定めて
真柱様は、年頭あいさつにおいて、4年後の立教189年に教祖140年祭を勤める旨をお話しになり、「道を伸展させるためには、いろいろな意味において、教祖の年祭を勤めることは大切なことである」と仰せになった。
いま、全教が教祖年祭の意義、旬を生かすということ、さらに心を揃えて具体的な活動を展開することについてよく思案し、教祖年祭の元一日に込められた親心にお応えするという、本来の意識に戻る必要があると思う。あらためて、教祖の年祭はなぜ勤めるのか、なぜ大切なのか、なぜ道の伸展につながるのかを胸に治めることが、年祭活動の第一歩である。
教祖の年祭は、人間の年祭とは全く意味が違う。そこで、先人たちがその時代の教祖年祭を、どのように受けとめて歩みを進めてきたかを振り返ってみたい。
教祖が現身をおかくしになって間もない1年祭、5年祭、10年祭あたりは、まだまだ情のうえでの悲しみや寂しさが濃かったと思う。さらに、お道を取り巻く状況が厳しかったこともあり、教祖の御苦労をはじめとする道すがらをお偲び申し上げるという意味合いが強かったのではないだろうか。
教祖が現身をおかくしになって以降、先人たちは、本席・飯降伊蔵様に「おさしづ」を伺いながら、さまざまなことを進められた。おさづけの理を戴き、各地に教会をお許しいただいて、教祖のひながたを手本とし、心を定めてにをいがけ・おたすけに奔走された。また、教祖の年祭を節目として、その旬に頂戴した「おさしづ」に沿って、本教の基盤を整えてこられた。さらに、本席様が明治40年にお出直しになってからは、教内外の事情にお見せいただく導きを思案し、対応しながら、やはり10年ごとの年祭を旬として、成人の歩みを進めてこられた。
こうした本教の歴史を踏まえて考えてみると、昨今のコロナ下で全教が同じことをできないということは、「それぞれができること、すべきことをする」ということが、いま求められているのではないかと思う。当時の先人たちのように、直接「おさしづ」を伺えずとも、「おふでさき」や『稿本天理教教祖伝』にお教えいただくことに、自分や周囲に見せられることを照らし合わせて思案し、実践していくことが重要だと思う。
教祖年祭活動の根本精神は、ひながた実践の心定めである。それには、いまの時代に、自分がひながたをたどるということは、いったい何をすることなのかを、それぞれがしっかりと思案し、具体的な目標を思い描くことだ。
ひながたをたどるということは、常に意識すべきところではあるが、10年に一度、教祖の年祭を定めて、そこへ向かう三年千日を仕切って、徹底して教祖のひながたをたどらせていただくのだ。全教が同じ旬を一手一つに、仕切って教祖のひながたをたどるという真実をもって、ご存命の教祖の親心にお応えすることが、教祖年祭を勤める意義である。
一手一つの勇んだ成人の旬に
教祖140年祭の三年千日活動は、1年後のこの日から仕切ってスタートする。いまは、まず教会長などの道の先達から、その意義を胸に治め、心定めに向けて心づくりをしていく必要がある。
先の教祖130年祭以後の道を振り返れば、教内外に大きな節を次々とお見せいただいた。「これでもまだ心が定まらないか」と、教祖がお急き込みくだされているように思えてならない。
教祖は、現身をおかくしになる直前の問答で、「さあ/\月日がありてこの世界あり、世界ありてそれ/\あり、それ/\ありて身の内あり、身の内ありて律あり、律ありても心定めが第一やで」(おさしづ明治20年1月13日)とお教えくださった。この順序は絶対であり、真実の親があってこその私たちである。だからこそ、第一と仰せられる心定めについて、いま真摯に、わが身に問いかけるときではないだろうか。
教祖の年祭活動は、成人の旬である。成人とは、教祖のお心に少しでも近づけるよう自分を育てていくことであり、それに欠かせないのが、それぞれの教会である。教会がその地で輝く存在になるには、心定めと不断の努力が必要なのは言うまでもない。おつとめとおさづけによって、土地所の人々をたすけ、教会が地域に求められる存在になるためには、たすける心を定めて種を蒔くことが第一である。
私たちは、親の守護を頂戴して生きている。そのご恩報じを忘れてはならない。身の周りに目を配れば、身上や事情で前を向くことができず、必死にたすけを求めている人が大勢おられる。たすけ一条は、道一条でなければ通れない道ではない。まずは、おさづけの取り次ぎからさせていただこう。
私たちが目指す陽気ぐらしは、私たち自身が求めていくものであり、一人ひとりの成人も同様である。求めて通って初めて、ご守護をご守護と感じ、喜びもついてくるのだ。
教祖がお付けくだされた道を通り、おたすけをする人が一人、また一人と増え、お互いが励まし合い、勇んだ話がまた次の人の勇み心につながっていく。そんな三年千日の年祭活動になるよう、まずは分かった者、できる者から心を定めて、だんだんと一手一つの勇んだ成人の旬にしていくことを、ともどもに、ご存命の教祖にお誓い申し上げたい。