天理時報オンライン

父から学んだ信仰姿勢


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髙橋秀紀(北白川分教会長・58歳・京都市左京区)

先日、ある信者さんから神実様をお返ししたいと相談がありました。その方は、実家から独立して家を建てた際、新たに講社を結ばれたのですが、単身赴任することになり、毎日のおつとめができなくなるのが心苦しいとのこと。時間をかけて話し合い、信者さん方も説得してくださったものの、本人の意志は固く、思いとどまってもらうことはできませんでした。そして、重苦しい気持ちで迎えたお返し当日の早朝、その方から「いろいろ考えましたが、これからも講社を続けますので、よろしくお願いします」とのメールが入りました。

心境の変化の理由を尋ねると、「会長さんや信者さんの言葉も心に響いたのですが、前会長さんが、この家に神様を祀らせていただいたときに見せてくださったうれしそうな顔を思い出したんです。あんなに喜んでくださったのに、お返ししては申し訳ないと思い直しました」とのことでした。

前会長である父は、1年余り入院した後、昨年暮れに出直しました。入院手続きの際、職業欄に私が適当に「無職」と記入すると、「『宗教家』に直してくれ」と。常によふぼくとしての自覚と気概、誇りを持っていた父でした。

入院中は、皆が父の回復を願い、父に安心してもらおうという思いで、心一つに、真剣におつとめを勤めました。そんななか、当教会から2人のよふぼくが誕生しました。そのうちの一人である姪に、「おさづけを拝戴してくれてありがとう」と声を掛けると、「おじいちゃんが喜んでくれるから」とひと言。何事も大げさなほど喜ぶ父の、うそ偽りのない姿が、人の心を動かし、導くうえで大切なことを教えてくれました。

みたまうつしの後、家族で『北白川分教会の歌』を歌うと、父がうれしそうにほほ笑んでくれたように見えました。その満足げな顔に、ふと教祖が現身をかくされた場面が重なり、あらためて父らしい生涯だったと思いました。

をやに喜んでもらいたい、人をたすけたいとの思い一つに、命を懸けてひながたをたどった父の姿を手本に、常によふぼくであることを自覚して三年千日を歩ませていただきたいと思います。