天理時報オンライン

教祖、ありがとうございます – 三年千日 ひながたと私


紙面レイアウト
で見る

濱 善剛(信道分教会長・52歳・長野県下諏訪町)

10年前、会長として初めて迎えた年祭活動の柱は、毎月のおぢば帰り団参でした。別席や基礎講座、神殿のトイレ掃除ひのきしんや記念建物見学など、とても充実した年祭活動だったように思います。

ですが、その方々がいまどれだけ教会につながっているかと考えると、会長として反省するばかりです。帰参した方々が尊いおぢばの理を頂けたことに間違いはありません。しかし、私はそれで安心してしまっていたように思います。

このたびの年祭活動は、日々を大切に通ることを大教会から打ち出していただき、当教会では、日々のご恩報じであるにをいがけとして、信者さん方にもリーフレット配布をお願いしています。そうした実践を浸透させきれない自分にもどかしさを感じていた昨年9月、リーフレットへの反応が2件ありました。1件は電話で、もう1件の方は教会まで足を運び、悩みを打ち明けてくださいました。

お二人の住所を確認すると、どちらも私が配布している地域ではありません。それぞれ、信者のMさんの住まいと仕事先の周辺でしたので、すぐにピンときました。Mさんは決してお話が得意なほうではありませんが、前回の年祭活動と同様に、今回も黙々と種まきをしてくださっていたのです。

先日、中学3年生の三男が、湯船に漬かりながら手を合わせて「ありがとうございます……」と感謝をささげていました。それは、私が数年来、入浴時に続けている親神様、教祖、祖霊様への〝感謝の儀式〟と同様のものでした。

ある日、その息子の仲間が4人、地元の高校受験を終えた日に、教会へやって来ました。「せっかくだからお礼の参拝を」と神殿に促すと、皆喜んで参拝し、神様の話も真剣に聞いて帰ってくれました。

当教会の活動はまだまだ充実したものとは言えませんが、こうして喜びの種をポツポツとお見せいただくたびに、心に勇気と元気が湧いてきます。どんなささいなことでもコツコツ続けさせていただこうと、あらためて思います。

教祖、喜びの種を、ありがとうございます。

教祖百四十年祭に向かい、「種まき」と「種への丹精」を忘れずに歩ませていただきます。