れる、られる – 世相の奥
2024・5/22号を見る
【AI音声対象記事】
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見ることができる状態を、しばしばわれわれは「見られる」と表現する。来ることができる様子も、「来られる」と言いあらわす場合がある。「られる」は可能性をしめす助動詞である。あるいは、助動詞「らる」の口語形とみなすべきか。
そして、このごろは「られる」の「ら」をはぶく人が、ふえている。「見られる」や「来られる」を、「見れる」や「来れる」ですます人が多くなってきた。いわゆる「ら抜き」だが、若い世代にその傾向はいちじるしい。いや、中年にも、ひろくゆきわたっている。りちぎに「見られる」と「ら」をそえるのは、老人ぐらいかもしれない。
それでも、日本語としておりめただしいのは、「ら」のあるほうだとされている。それはテレビの字幕、テロップを見ていると、よくわかる。画面に登場する人物が「ら抜き」でしゃべっているのに、字幕は「ら」をおぎなう。テロップでは「ら抜き」とならないようにあしらう画面を、まま見かける。
そんな放送とでくわすたびに思う。テレビ局は用語用字の問題に関するかぎり、保守的な側へよりそっているのだな、と。
しかし、先日、番組名はふせるが、まったく逆の画面に遭遇した。VTRにあらわれた老人は、「ら」をはぶかぬ言い方で、ていねいにしゃべっている。にもかかわらず、字幕のほうが「ら抜き」で彼の口説を、文字化していたのである。
おそらく、テロップの製作者は若かったのだろう。老人が口にした「ら」のある言いまわしは、わかりづらい。だから、誰でものみこめるよう「ら抜き」にしてしまったのだと思う。担当者なりに、視聴者の平均値をおしはかって。見ながら、いよいよ「られる」は絶滅にむかうのかと、痛感した。
まあ、「見られる」という表現は、敬語としてもうけとめうる。ごらんになるという意味合いで、解釈をされかねない。それをさけるために、可能の「見られる」を「見れる」にしてしまう手はあろう。
私が目撃したテロップに、その意思があったとは言うまい。また、担当者は、あとで番組のプロデューサーから、しかられているような気もする。もちろん、局内にいるほかのスタッフは、字幕の処理に頓着しなかった可能性もある。いずれにせよ、老人の私は、ほろんでしまいそうな「ら」とともにありたい。
井上章一・国際日本文化研究センター所長