長年の発掘調査からひもとく大和の集落遺跡の歴史 – 天理参考館 第96回企画展「布留遺跡の歴史」から
2024・7/17号を見る
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天理参考館(橋本道人館長)は、第96回企画展「布留遺跡の歴史――物部氏より前から後まで」を9月9日まで開催中。天理市内の布留川の南北に広がる「布留遺跡」は、古墳時代に最も栄え、古代の豪族・物部氏が本拠を置いた集落遺跡として知られる。今展では、1938年から約70年にわたって続けられた発掘調査(コラム参照)の記録と出土品を展示。旧石器時代から中世に至る布留遺跡の長い歴史を振り返ることができる。ここでは、展示資料の一部を紙上紹介する。
海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)
杣之内火葬墓 奈良時代
海獣葡萄鏡とは、鏡の背面(物を映す面の反対側)に葡萄と獣を描き出した鏡で、中国の唐で造られた。本例は杣之内町の墓に副葬された海獣葡萄鏡。貴重な鏡を副葬してもらえる高位の人がこの辺りにいたことが分かる。
子持勾玉(こもちまがたま)
布留遺跡樋ノ下・ドウドウ地区 古墳時代
勾玉は縄文時代から古墳時代までの長い間、首飾りに使用する身近な装身具だった。本例は、大きな勾玉に小さな勾玉が付属する、古墳時代独特の祭祀用の勾玉。C形の大きな勾玉に小さな勾玉が合計11個付いている。
翡翠製大珠(ひすいせいたいしゅ)
布留遺跡堂垣内地区 縄文時代
大珠は、滑らかに磨いた石に孔を開けたもの。石材には新潟県産の翡翠が好まれた。その多くは東北地方と東日本に分布し、近畿地方では5点しか見つかっていないが、そのうち2点が天理市出土である。今展では、その2点を揃えて展示している。
木製刀装具
布留遺跡里中地区 古墳時代
東西礼拝場建設のために実施された発掘調査で、古墳時代から奈良時代までの大きな溝が見つかり、大量の木製品が出土した。本例は刀や剣の把の部分だが、刀身の部分と組み立てた痕跡がないので、実用よりは祭祀用だったと考えられる。
縄文土器
布留遺跡堂垣内地区 縄文時代
おやさとやかた東棟東側の駐車場付近で行われた発掘調査で、縄文土器と石器が多数出土。土器の中には完形に復元できる物も。石棒や大きな石を半分埋めた遺構も見つかったことから、大規模な集落だったと考えられる。
企画展の詳細は、天理参考館公式ホームページからご確認ください。
https://www.sankokan.jp/news_and_information/ex_sp/sp096.html
コラム -「布留遺跡」発掘調査の歩み
天理市に所在する布留遺跡の発掘調査は1938年に始まった。当時進められていた、おやさとやかた東棟前のプール建設に伴う工事のさなか、弥生土器や土師器(素焼き土器の総称)、石の破片などが出土した。のちに考古学の研究者が、これらの土器について論文を発表。町名にちなんで「布留式」と命名され、現在も考古学の用語として使われている。
翌39年には、多数の縄文土器や大型石棒が出土。このとき出土した縄文土器は、良好な一括資料として「天理式」と命名された。
2回の発掘調査で時代の異なる土器が大量に出土したことを皮切りに、その後の調査でも価値の高い遺物が多数出土。その数10万点超に上り、布留遺跡は大和における重要な集落遺跡として認識されるようになった。現在までに、縄文時代・古墳時代・中世の遺構や遺物が数多く見つかり、遺跡の範囲は東西2キロ、南北1.5キロに及ぶことが判明している。