極夜の皇帝たち – 成人へのビジョン28
2024・9/18号を見る
【AI音声対象記事】
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夏に決まって思い出すのは、南極の皇帝ペンギンのことです。この時季は南極の冬に当たり、太陽が昇らない極夜のなか、彼らは体を寄せ合い、まるで一つの生命体のようです。わずかな熱も逃さないように、密に、密に。
その光景を初めて目にしたのは何年も前のことでした。椅子に寄り掛かり、ウーロン茶を片手にテレビを眺める。そんな私とは無関係に展開される、静かで過酷な生命の現場。寒風が直撃する外側と、熱を保つ内側のペンギンが交代を繰り返し、マイナス50度の極寒のなかで命をつないでいく。その巨大な塊は、私にとって忘れがたいものとなりました。
「どうして神様は、こんなふうに世界を創られたのだろう?」。私は不思議な感覚にとらわれました。
ペンギンの営みは、多くの人々にとって知る由もない世界です。別にペンギンでなくてもいいのです。枝にじっとしがみつき、通りかかる動物を待ち続けるダニ。密林の奥深く、人知れず熟し、朽ちてゆく果実。私と関係なしに、世界は無数の存在で満ちている。そんな当たり前のことを、ふいに思い知らされた、そんな感覚。
「人間の陽気ぐらしをするのを見て神も共に楽しみたい」。そう思召されて、世界は創られた。そして、神様は皇帝ペンギンもつくった。どう考えても、彼らがいなくたって問題ない。いや、複雑な生態系のこと、私に分からないだけで必要なのかもしれない。でも、だからといって皇帝ペンギンがこんな暮らしをする必然はない気がする。目的(陽気ぐらし)は分かったけれど、神様はそのために、これほどまでに多様な存在で世界を満たす必要があったのだろうか。
そう考えると、世界は“余計なもの”で溢れているように感じます。一定の目的にかなわない、余剰。しかし、それこそが“豊かさ”と呼べるものではないでしょうか。
それは有用性という尺度では測れない贅沢さ。私たちの知性では到底消化できない、この地球の豊穣。だからこそ私は、あのペンギンの姿を見て、あの不思議な感覚にとらわれたのだと思うのです。
さて、それが何の役に立つのか。
それは、そう質問してしまう私のさもしさ、当然のように有用性(役に立つか)の尺度で世界を眺める眼、からの自由。解放です。