信仰を心の拠り所に“お初”のお供え続け うなぎ屋「みしまや」大女将の奥村容子さん – ようぼく百花
2025・2/12号を見る
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天理市三島町の国道169号沿いに店を構えるうなぎ屋「みしまや」。午前11時前、大勢の人々が列を成すなか、入り口から店主の奥村和徳さん(39歳・南勢陽分教会別席運び中)が出てくると、お客さんを店内へ招き入れる。
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「いらっしゃいませ」
かば焼きの香ばしい匂いが漂う店内では、和徳さんの母である大女将の容子さん(66歳・同教会教人)と妻・美里さん(34歳)が出迎える。厨房では父である前店主の圭市さん(69歳・同教会教人)がうなぎを焼き、弟の理史さん(37歳)が白米とタレを混ぜ合わせ、丼に盛りつける。
人のために身体を使う
商売を営む奥村芳樹さん(故人・同教会3代会長)の次男として生まれた圭市さんは、大学卒業後、容子さんと結婚。その後、芳樹さんの勧めで、うなぎ問屋を営む親戚の協力のもと、うなぎ屋を開業することを決めた。
圭市さんは1年間、親戚の伝手を頼りに料亭を巡って修業。その後、寿司職人だった叔父と共に独自のタレを開発し、店を構えた。
昭和59年の開業当時は、教祖100年祭へ向かう年祭活動のさなか。芳樹さんからの「海鮮物を本部にお供えするように」との声を受け、圭市さんは三年千日の心定めとして毎日のお供えを続けた。100年祭が勤め終えられた後も、夫婦で話し合い、うなぎの“お初”を毎日お供えすることを決めた。
容子さんは「お道の信仰を胸に商売を続ける中で、節を何度も乗り越えられた」と振り返る。
平成10年、容子さんが「急性骨髄性白血病」と診断された。入院中、これまでの通り方を振り返る中で、「店の売り上げが右肩上がりのなか、いつの間にか、お客さんの後ろ姿が一万円札のように見えていた。『こうまん』の心があったと反省した」。
その後、容子さんは骨髄移植を受けられることに。「健康でいられるのは当たり前ではないということを身をもって感じた。身体を使わせていただけることに感謝し、人のために動けることを喜んで、仕事をさせてもらおうと思った」と語る。
約8年前には、国内のうなぎの漁獲量が激減し、仕入れが難しい状況に陥った。先行きが見えない状況の中でも、本部神殿への“お初”のお供えは欠かさなかった。店は営業日を週3日に減らしつつも、うな丼を提供。やがて漁獲量が安定し、翌年には通常通りの営業が再開できた。
和徳さんは「一時はうなぎを諦めて、あなごに替える寸前まで話が進んだが、創業当時から続けてきた国産うなぎにこだわろうと思った。結果的に、その後のコロナ下でも、うなぎ弁当を販売することができ、多くの人たちに喜んでもらうことができた」と話す。
5年前、和徳さんが店主を継いだ。「父はとにかく実直な性格でひたむきに仕事をこなし、母はどんなお客さんに対しても、満足して笑顔で帰ってもらうことを大切にしている。両親と同じようにはなれないかもしれないが、少しでも近づけるようにしたい」
◇
きょうも圭市さんが焼き上げた“お初”のうなぎが本部神殿にお供えされた。
容子さんは「身上をご守護いただいたことや、営業の危機に陥ったとき、親神様という心の拠り所があることが、信仰の有り難さなのだと感じた。これからも親神様に心をつなぎ、お客さんに喜んでもらえるように努めたい」と語った。
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