人だすけとしての「働き」- 視点
2025・5/21号を見る
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毎年5月1日には世界各地でメーデー(May day)と呼ばれる、労働者の祭典が催されている。これは1886年5月1日、アメリカ・シカゴで労働環境の改善を求めて労働者がストライキを起こしたことが始まりとされる。近年は「労働状況の改善を求め、労働者が声を上げる日」として、ヨーロッパをはじめ世界各地で集会やイベントが行われている。
筆者が暮らすブラジルも同様、当日は多くの国で祝日になっているが、日本は例外だ。その理由の一つとして、11月23日に「勤労感謝の日」が設けられていることが挙げられる。
これは、五穀豊穣を神に感謝する「新嘗祭」に由来するもので、内閣府ホームページの「国民の祝日について」には「勤労をたっとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」ための日とある。
ところで本教では、ようぼくの日々の基本的な信仰実践として「朝起き、正直、働き」を教えられている。『稿本天理教教祖伝逸話篇』111「朝、起こされるのと」には、「朝起き、正直、働き。朝、起こされるのと、人を起こすのとでは、大きく徳、不徳に分かれるで。蔭でよく働き、人を褒めるは正直。聞いて行わないのは、その身が嘘になるで。もう少し、もう少しと、働いた上に働くのは、欲ではなく、真実の働きやで」とある。
働くことは、人間が生きるうえで欠かすことのできない営みである。稼ぎを得て生計を立てるうえでは当たり前ともいえるが、ここでのそれは人間本来の生き方を教示されたものである。
ある先人は、人間はこの世に生まれて来たからには働かしてもらわなければならない。遊ぶために生まれてきた人は一人もいない。また、どんな仕事でも他人事だと思ってすれば人のことになり、わがことだと思ってすれば、すべてわがことになる。すなわち、働いた徳はすべて自分のものになると語っている。
教祖は「働くというのは、はたはたの者を楽にするから、はたらくと言うのや」(『稿本天理教教祖伝逸話篇』197「働く手は」)とお教えくださった。「働き」の根底にあるのは、どこまでも人だすけの心である。先述の先人の言葉を借りれば、人だすけの精神に基づいてさえいれば、いくら働いてもそれは欲ではなく、親神様は真実の働きとしてお受け取りくださり、働いた分の徳は自分のものになるということだろう。
(村田か)