“応答性”の源泉 – 成人へのビジョン 36
2025・6/25号を見る
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25歳の春、「布教の家」を終えた私は、その地に残ることを選びました。卒寮後の単独布教、それは憧れでした。門限も日直もない。制限のない環境で自由ににをいがけ・おたすけに歩く、それこそが本物の布教師だと思い込んでいたのです。
ところが、始まってみると、初日こそ夜遅くまで歩いたものの、それ以降は足が止まりました。自由になったはずの私は、布団を干し、部屋の掃除やこまごまとした片づけをするばかり。そうすることで後ろめたさを正当化していたのです。その矛盾や空虚感は、次第に私を苦しめました。「こんなはずじゃ……」。でも、止まった足は動かない。私はようやく思い知ったのです。寮生活は私を縛っていたのではなく、歩かせてくれていたのだと。
思い上がりは打ち砕かれました。寮の仲間、先生、挨拶を交わす人々らが皆、知らぬ間に私の背中を押してくれていたのです。
月日は流れ、教会長を拝命して1年が経ちました。後継者として育てていただいた私ですが、就任後はまた違う景色が見えてきます。信者さん一人ひとりの信仰の歩みが、報恩感謝の行いとなって教会へと運ばれている。その事実に、私は深く励まされています。
私は思うのです。人は他者の思いやまなざしに、自然と応えようとする力――“応答性”を内に宿していると。粗末にされれば心は離れ、大事にされれば応えたくなる。それは人の自然な姿です。信者さんの姿に励まされる私がいる一方、教会へと運ばれる信者さんの真実もまた、何かに応えようとする歩みにほかならない。その“何か”とは――その糸をたどれば、必ずおやさまに行き着きます。
「教祖お一人から始まったこの道を、先人はひながたを心の頼りとして懸命に通り、私たちへとつないで下さった」(「諭達第四号」)
連綿と続く応答。おやさまはご存命です。この道を始めたのみならず、いま・ここに、いつも私たちのそばで導いてくださっている。それを心から感じることができたなら、応える勇気が芽生えてくる。「おやさまのご恩に応えたい」。その一念こそ、この道を歩む私たちの“応答性”の源泉ではないでしょうか。
そう、あのとき私が夢見た単独布教は、幻想だったのです。なぜなら、いつもそこに、ご存命のおやさまがいてくださるのだから。
可児義孝・河西分教会長