天理時報オンライン

意味のある場所になれているか – わたしのクローバー


紙面レイアウト
2025・7月号を見る

濱 孝(天理教信道分教会長夫人)
1972年生まれ

離島にて

若いころ、私はオーケストラで楽器を弾く仕事をしていた。回ってきた仕事のなかに、文化庁から派遣されて、本物の舞台芸術を鑑賞する機会の少ない離島や地方で演奏するツアーがあった。

一週間ほどの日程で、九州各地のホールを回る。演奏会のプログラムは、ベートーベンの『運命』など、誰もが知っている弾き慣れた曲ばかり。当然リハーサル時間も短く、ホールの音の響き方などを確認して、あとは夜の本番、そして次の演奏地への移動。その繰り返しだった。

そのツアーの中に、長崎県の離島での演奏会があった。夜遅くに現地のホテルに到着し、翌日は夕方からのリハーサルまで時間があったので、ホテルの周辺を散歩することにした。

そこは小さな漁港で、シャッターが閉まったままの商店街があった。韓国に近いせいか、ハングル文字の看板があちこちに見られ、まるで外国にいるかのような不思議な感覚だった。

海沿いの道をしばらく進むと、見慣れた文字が目に入った。そこに、なんと天理教の教会があったのだ。

思わず足が止まった。ブロック塀に囲まれた広い敷地の中に、大きな神殿が建っていた。

これまで、海外を含め天理教の教会に参拝する機会はたびたびあったが、散歩していて、急に目の前に教会が現れたのは初めてだった。しかも、外国に来たような気分でいたものだから、私はびっくりした。

上がって参拝しようか、それとも一礼してホテルに戻ろうか。きっと、この場所にもう一度来ることはないだろう。時間はまだある。思いきって参拝することにした。

つながっている!

石の階段を上がり、大きなガラス戸をそっと開けてみた。

つながっている!そう感じたのだ。初めての感覚だった。

飛行機を乗り継ぎ、玄界灘を越えたその場所が、まぎれもなく、遠く離れた奈良県天理市にある人類のふるさと、おぢばとしっかりつながっていたのだ。

イラスト:ふじたゆい

すぐそこに、人間創造の元の地点である「ぢば」、そしてその証拠として据えられた、礼拝の目標である「かんろだい」があるのではないかと錯覚するくらい、澄んだ空気が満ちあふれた場所だった。

月に一度の祭典日には、この広い参拝場が人でいっぱいになるという。海と山に囲まれた人影もまばらなこの島で、簡単には帰ることのできない、あのおぢばを慕って人が集まるのだという。

なんと意味のある場所なのか。私の心の奥にズシンと突き刺さる、強烈な経験だった。

長野県の教会に嫁いで、今年で25年になる。3人の息子にも恵まれた。これまで、長崎のあの教会のことを忘れたことはない。

うちの教会を訪れた人は、あのときの私のように、おぢばとしっかりつながっていると感じてくれるだろうか。おぢばの出張り場所として、意味のある場所になれているだろうか。

私は主人と、この教会を守っている。これほど尊く大切なことはないと思っている。


【天理いきいき通信2025年7月号】の記事が他にもあります。