生き方の根本となる喜びを – 本部「田植え」
2025・7/9号を見る
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教えを味わう“親里の風物詩”
恒例の本部「田植え」が6月20日、天理高校農事部の杣之内農場で行われた。
梅雨とは名ばかりの強い日差しが降り注いだこの日。真柱様が水田近くでご覧になるなか、真柱奥様と大亮様ご夫妻は、本部在籍者、天理高職員、農事部の生徒ら約160人と共に、素足で水田に入られた。
大地に学ぶ“農のこころ”
お米の価格高騰をはじめとした、いわゆる“令和の米騒動”が世間を騒がせるなか、親里では今年も変わらず、伝統の「田植え」が行われた。
この“親里の風物詩”は、昭和11年秋、中山正善・二代真柱様が旧制天理中学校農事部(当時)の稲刈りをされたことに始まる。翌12年6月には、幼少であった中山善衞・三代真柱様と共に田植えをされた。
二代真柱様は、その思いについて、「おふでさきなどにお示しになって居る教理の内容を、実際に味わってみ度い」(昭和29年、天理高校農事部創立20周年記念式でのお言葉)と示されている。
また、中山家が代々農業を生業としてきたことから、「これを何とかして自分でも持ちこたえると共に、同時に、私の子供達にも味わゝし度いというのが目的であった」と述べられている。
お道の教えは、しばしば農事に託して説かれている。「みかぐらうた」では、一下り目をはじめとして、こゑ、つくりとる、ほうねん、とりめ、でんぢ、たねをまく、ものだね、といった農作業に由来する言葉が数多く用いられている。旬を外さず、種をまき、肥を施し、丹精をする。農作物を育てるというたとえを用いて、人を育てるうえでの大切な要点が教えられる。
教祖が農事にたとえて教えを伝えられたことについて、二代真柱様は「自然の勢いで大地から物が出来上って来る、それが自分の力を加えることに依って十二分の命をなす(中略)こゝに人間の生き方に於いて一番根本となる喜びがあると思うんです」「百粒の米は、ほっといてもなるだろう。しかし乍ら、人の力を加えて行くと、百五十粒にもなり、何匁の米にもなって来るという事実を、田畑を作り乍ら味わい、しかもそれが成人の上にプラスされる様に学んで行き度い」と仰せになっている。
また、「人間の教育なり生活なりというものと、農作物の動きというものとは非常によく似て居る」「我々の心が加われば加わる程、そのものがより以上、その生命の発育をよくして行く、この事実を、或は肥とか、或は何とかいう様にいろ/\仰しやって居る。その意味をよく考えなければいけない。で、このお言葉を如実に感ぜられるのが、矢張り大地に触れて居ることが、一番大切であると思う。この頃の社会生活から見ますと、米は、単なる食糧品の産出工場の製品と考えられて居るだけであります。(中略)しかし乍ら、その中に生れて来るところの命をよくするならば、我々は、心にもっとゆとりと喜びが感じられる筈であります」と述べられている。
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農事部生のかけ声を合図に、昔ながらの手作業で、約4万5千本の苗を約15アールの水田に植えつけていった。
今後は農事部の生徒たちが除草や水量調整などの丹精に当たり、火水風のご守護により、秋に豊かな実りがもたらされる。






