「精いっぱい動いた」という心で年祭を迎えよう – おやさと講演会
2025・7/9号を見る
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教会本部主催の「おやさと講演会」の5回目が6月25日、本部第2食堂で行われた。この日は、全国各地から帰参したようぼく・信者554人が参集するなか、深谷善太郎本部員が「ひながたを目標に喜び・おたすけ・伏せ込みの種まきに励もう」と題して登壇。教祖140年祭へ向かう三年千日の〝締めくくりの年〟に、講演を心の糧にして残りの年祭活動に拍車を掛けようと、前のめりになって聴き入る帰参者の姿が見られた。ここでは、講演内容を要旨で紹介する。
◎講演要旨
「ひながたを目標に喜び・おたすけ・伏せ込みの種まきに励もう」
深谷善太郎本部員
年祭活動の旬は、教えを実践する旬であり、種をまくときである。そこでまず喜びの種まきについて、三つに分けて話したい。
一つ目は、与えを喜ぶこと。かしもの・かりものの理を味わうということである。体内から地球環境に至るまで、天理に基づいて規則正しく動いてくれているおかげで、私たちは意識することもなく暮らすことができている。空気の存在のように、大切だけれども気づかないようなご守護が山のようにあることを、お互い感謝して通らせていただくことが大切だと思う。
二つ目は、喜びにくいことを喜ぶこと。「目が見える」と比べると、「見えにくい」のは不自由であり、不足の種になる。「聞こえにくい」「食べにくい」「歩きにくい」も不足の種になりがちだが、「にくい」と「ない」の差は大きい。見えにくくても見えるということを喜んで通らせてもらうことが大事だ。
三つ目は、喜べないことを喜ぶこと。これは最も難しい。教祖は、明日の食事に事欠く状況にあってさえ、健康の喜びを味わうことをお子さん方に教えられ、なお人に与えながらお通りになった。私たちの先人先輩は、そうした教祖のひながたを目標に、その後を慕うて通らせていただいた。そのおかげで、いまの私たちがある。どんな中にも喜びの種があり、親神様の親心がこもっている。それを信じて信仰実践に励むことが大切である。その実践の第一は、にをいがけ・おたすけである。
ここまで話してきた三つの喜びを糧に、にをいがけ・おたすけに励ませていただくことが親神様のお望みであり、その喜びがおたすけの原動力にもなる。
姿には現れない徳分が大切
おぢばはたすけの根源であり、おぢば帰りはおたすけの第一歩である。おぢばへ帰ってご守護いただいた例は数知れない。そして、私たちが動けば必ず親神様はご守護くださり、教祖はお導きくださる。おぢば帰りの喜びをもって、一人でも大勢の人を連れて、たび重ねて帰らせていただきたい。
おたすけの場面において、私は伏せ込み、徳積み、理づくりの大切さを痛感する。どんなに正しいことを伝えたとしても、「あの人が言うのだから」と聞いてもらえるか、「あの人には言われたくない」と思われるかで、天と地ほどの差が出る。姿には現れないその人の徳分が大切であり、それを身につけるには、しっかり伏せ込みに励むことが欠かせない。
実行してこそご守護が頂ける
人間は「今日も元気だから、多分明日も元気だろう」と思い込みやすい。しかし、明日の命の保証はない。そもそも私たちは、自分や配偶者、子供、孫といった肉親の寿命も知らない。人生には信仰する、しないにかかわらず、つらい、悲しい出来事は必ず起こるということである。
しかし、私たちは、親神様によって造られた子供であり、どんなにつらい節の中にも、親神様の子供可愛い親心がこもっていることを知っている。こんなありがたいことはないのである。ただし、知っているだけでは運命は変わらない。教えを実践、実行してこそご守護が頂ける。
ただいまは、教祖140年祭の年祭活動3年目。皆さん方の中に同じ人は一人もいないように、皆それぞれ環境も異なる。しかし、精いっぱい動いたという点においては、皆揃ってできたという姿で教祖140年祭を迎えさせていただきたい。
本年の「年頭あいさつ」で真柱様は、一手一つになれば、自分一人では出せない力を与えていただくことができ、自分一人では味わえない喜びを味わわせていただくことができるとお諭しくださった。
教祖140年祭まであと7カ月。どんな力をお与えいただけるか、どんな喜びを味わわせていただけるかを楽しみに、喜びの種まき、おたすけの種まき、伏せ込みの種まきに、一手一つに精いっぱい努めさせていただこう。