はたはたの者を楽にする喜び – 綿のおはなしと木綿のこころ 第6回 綿繰り
2025・9/24号を見る
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江戸時代から明治時代中ごろにかけて、綿作が盛んだった奈良盆地。20年近く綿の自家栽培に取り組む筆ま者が、季節を追って、種蒔きから収穫・加工に至るまでの各工程を紹介する。
綿畑は収穫最盛期を迎えつつあります。毎日毎日、次から次へと綿が吹くので、この時期は夕方になると畑を一巡しながら綿摘みをするのが日課になります。そして、収穫した綿は通気性の良い籠に入れて保管し、数日は日に当て、しっかりと乾燥させてから綿繰りを行います。
綿繰りとは、収穫した綿花の中に入っている種を取り出す作業です。2本のローラーの間に綿を潜らせ、繊維と種に選り分けていきます。道具は、昔ながらの木製綿繰り機(シンコロクロとも)を使います。少しずつ綿を潜らせるため、作業にはとにかく時間がかかります。畑で収穫したばかりの綿が「実綿」で、綿繰りを経て種が取り除かれた繊維のみの綿を「繰り綿」と呼びます。昔も今も綿花の商取引は、繰り綿の状態で行われるのが通例です。
中山家はかつて「綿屋」という屋号を有し、秀司様が綿を商われていました。中山正善・二代真柱様の『陽気ぐらし』(道友社刊)には、次のように記されています。
「実は、綿屋と申すのは、私の家、中山家が幕末に使っていた屋号なのであります。『わたや善右衞門』と申すのが私の祖父に当る人なので、後年中山秀司の名の下に教会史に現われてくる、秀司祖父のことなのであります。(中略)庄屋や戸長を勤めるかたわら近郷から綿を集めて、商っていたらしいのです」
ただし、中山家がいつごろから「綿屋」の屋号を有していたのかは、はっきりしないようです。教祖が貧に落ちきる道を歩まれる中で、中山家が最も経済的に苦しかった時代、秀司様が木綿の紋付を着て青物や柴を商うて近村を歩かれたように、綿の商いも始められたのかもしれません。秀司様の筆による『万覚日記』には、「実綿」「操綿」という文字も出てきます。
ところで綿繰りは、かつて「隠居、子供の仕事」とも言われたそうです。畳の上に座って、あるいはいすにまたがるような体勢での作業が可能で、綿繰り機の持ち手を握ってグルグルと回すだけなので、畑へ出て農作業をすることが難しくなった高齢者でも、まだ一人前の仕事ができない幼い子供でも、要領さえつかめば誰でもできるからです。とはいえ、綿を加工するうえで重要な第一次工程です。単純ではあっても欠くことのできない大切な作業で、とにかく時間を要するだけに、手伝ってくれる人がいなければ前には進みません。
かつて私の父は、89歳で出直す直前まで綿繰りを手伝ってくれました。そして綿の繊維と種の重さの比率などを克明に記録しながら、繰り綿に混じる葉ごみを母親と共に丁寧に取り除いてくれました。「脊柱管狭窄症」を抱え、歩行に不安があるなか、デイサービスのお世話にもなりながら、「綿繰りをした日は特に晩酌がうまい!」と言って喜んで手伝ってくれました。どんなにありがたく、たすけられたことでしょう。父のその言葉には、息子に余計な心配をかけないようにという心づかいがあったことは間違いないと思いますが、一方で自分にもまだできることがある、という自負のようなものもあったように思います。
教祖のお言葉に「働くというのは、はたはたの者を楽にするから、はたらくと言うのや」(『稿本天理教教祖伝逸話篇』197「働く手は」)とあります。おそらく父は、最期まで生涯現役で“はたらく”ことができる、それが何よりうれしかったのかもしれません。10年を経ていま、あらためてそう感じます。
梅田正之・天理教校本科研究課程講師