苦労の道中も喜びを見つけて – 綿のおはなしと木綿のこころ 第8回 糸紡ぎ
2025・12/3号を見る
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江戸時代から明治時代中ごろにかけて、綿作が盛んだった奈良盆地。20年近く綿の自家栽培に取り組む筆者が、季節を追って、種蒔きから収穫・加工に至るまでの各工程を紹介する。
綿繰りを経て実綿から取り出された種は、叩いて搾ると油が取れます。当時は菜種油とともに、主に灯明油として重宝されました。搾り粕は大切な肥料となり、現在でも綿実油粕は有機肥料の一つとしてホームセンターなどで販売されています。
綿打ちを終えた打ち綿は、丹前や褞袍と呼ばれる着物の詰め綿、あるいは布団綿となるほか、ジンキ、よりこ、篠などと呼ばれる糸紡ぎ用の綿になります。
綿は細かい繊維の集合体ですから、指で撚るだけでも、すぐに糸になります。紡ぐとは、細かい繊維の1本1本に撚りをかけてつなぎ合わせ、糸としての強度を確かなものにしていく作業です。
現在、私は10分で約2グラムの打ち綿を紡ぎます。江戸時代の単位でいえば、1匁は約3.75グラムですので、1時間で約3匁。私の力量では8時間休みなく糸を紡ぎ続けても、やっと24匁程度です。
糸を紡ぐ道具には糸車、チャルカ、スピンドル、タクリなどと呼ばれるさまざまなタイプがあり、江戸時代に一般的に用いられたのは手回し式の木製糸車です。土台、車輪、細い棒状の紡錘と糸(はや糸、ベルト)だけの単純な構造です。車輪を1回転させると紡錘が60~80回転し、その紡錘先に糸を滑らせることによって繊維に撚りをかけていきます。右手で車輪を回し、左手でジンキを引いていきます。右手と左手のバランスで糸の太さ、強度をコントロールします。上手に紡ぐには熟練を要するものの、慣れると単純な反復運動が心地よくもあります。
糸の太さは番手で表します。1ポンド(約453.6グラム)の重さの打ち綿で、どれだけの長さの糸を紡ぐことができるかで番手が決まります。840ヤード(約768メートル)であれば「1番手」。その倍の長さになれば2番手です。私の紡ぐ糸は、およそ10番手から12番手くらいです。15番手くらいを紡ぐときもありますが、20番手以上の糸を紡いだことはありません。番手が大きい糸ほど、高度な技術が必要になります。
『稿本天理教教祖伝』第三章「みちすがら」には、教祖が月明かりを頼りに糸を紡がれた様子が記されています。
「六十の坂を越えられた教祖は、更に酷しさを加える難儀不自由の中を、おたすけの暇々には、仕立物や糸紡ぎをして、徹夜なさる事も度々あった。月の明るい夜は、『お月様が、こんなに明るくお照らし下されている』と、月の光を頼りに、親子三人で糸を紡がれた。秀司もこかんも手伝うて、一日に五百匁も紡がれ、『このように沢山出来ましたかや』と仰せられる日もあった。普通、一人一日で四十匁、夜業かけて百匁と言われていたのに比べると、凡そ倍にも近いお働き振りであった」
木綿織物業が隆盛しつつあった当時の大和において、糸紡ぎは農家にとって大切な副業の一つでした。老若男女がこぞって糸を紡いだことは知られていますが、それにしても親子3人で1日に500匁は常識的には考えられない量です。そこには、それなりの理由があったはずです。
糸の太さによって作業効率が変化するので一概には言えませんが、驚異的ともいえる量の糸を紡いでおられたときの教祖のご様子を想像するうちに、最近になって「このように沢山出来ましたかや」のひと言が大きな意味を持つように思えてきました。
500匁もの糸を前に二人の子供を労い、ご満足げに微笑まれる教祖のお姿――。教祖伝に拝すひながたの一場面から、苦労の道中も楽しんで、積極的に喜びを見つけて通ることの大切さを、お示しくだされているのかもしれない、と。














