「世界改造のお手伝いをさせてもらいますのや」 板倉タカ(下)- おたすけに生きた女性
2025・12/17号を見る
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誰彼の別なく声をかけ、教えを伝えたタカ。後年、シンガポール「新嘉坡を根拠として、マレー馬來半島、スマトラ、ボルネオ、フィリピン群島から遠く南洋諸島へ道をつけたいと神様に願っています」と将来の夢を語った
困難にも精神を倒さず
教祖30年祭後、タカは数カ月間をおぢばで過ごし、大正5(1916)年7月、2、3戸の現地信者を頼りにシンガポールへ赴きます。マレー半島にはすでに70戸ほどの信者がいましたが、さらに道を広めてシンガポールに教会を設置したいと考えていました。現地に着いたとき、手元にはわずか1円しかありませんでした。あてにしていた信者も頼りにならず、しばらくの同居も断られ、最初から身の置き所に困りますが、タカはここが神様の試練であると、たまへ様のお言葉を思い浮かべます。「どんな悲しいことや苦しいことがあっても、精神を倒すやない」と心に鞭を打ち、勇んで努力するのでした。

困難な日々を過ごすなか、やがて神様のお与えがありました。数名の信者が寄り合って4畳半の部屋を間代5円で借り受け、万事面倒を見てくれるようになったのです。タカは困難に直面しても精神を倒さず、神様にもたれ、真実を尽くし運びました。そこに不思議なご守護が現れ、その信念はますます強固になっていくのでした。当時、自身の集談所を「南洋布教所」と称していたとの記録もあります。
同7年9月、天理教校別科に入学し、翌年に卒業してシンガポールへ戻ると、思いがけない出来事が待っていました。留守を頼んだ婦人が悪漢に誘拐され、娼館へ連れ去られていたのです。集談所は数カ月間も施錠したままで、お社や神床をはじめ、部屋の隅々まで埃だらけでした。泣きたくなるほどつらいなか、タカはこの不始末を神様にお詫びしました。同時に、薄情な講社の人々に不満を抱きますが、信者の粗相は、彼らを導いた自身の不行き届きであると思い直すのでした。
その後、誘拐された婦人を救出するため、日本領事館へ赴いて婦人の自由廃業の処置を訴えます。すると領事館員は、逆にタカの身元や職業を調べ、天理教教導職の所持を疑って、一時は教職の免状を取り上げました。現地の邦字紙『南洋日日新聞』は、この事件をネタに天理教の悪口を面白半分に書き立て、散々に攻撃しました。
わが子供と思って真実尽くし
この件を申し訳なく思ったタカは一層奮起し、日夜布教に奔走します。すると、多くの珍しいたすけが現れました。
近藤弥八は脊髄の病気で足腰が立たなくなり、4年半も入院していました。治療の効果なく苦しむ弥八に、タカは「かしもの・かりもの」「八つのほこり」「いんねん」の教理、「ぢば一つの理」を説きました。弥八が熱心に信心し始めるようになると、「私にこの病人をお与えいただけば、わが子供と思って世話さしていただきます。集談所へ連れゆき、大小便の世話さしていただきますから、どうぞ1年半の間に足を立てて、歩行自由のご守護をお与えください」と心を定めます。病院の許可を得て15階の病室から弥八を抱えて下ろし、集談所へ連れて帰ると、大小便から身の回りの介抱をして、朝夕一心に神様にお願いしました。すると1年半のお願いのところが、弥八は1カ月ほどで足腰の自由がかなうようになり、日増しに回復して、5カ月目にはおぢば帰りを果たしました。
また、悪性の梅毒を患って手足の自由を失い、生活に困窮している人に、にをいが掛かりました。家が集談所から十数里も離れていて通えないため、タカは5円の旅費を送って本人を引き取ります。大小便の世話とともに、おさづけを取り次ぐなか、すぐにご守護を頂きました。

下村という人の子供は腫れ物に悩んでいました。大手術をしなければ全快は難しいとの医者の見立てでしたが、神様にお願いすると、腫れ物は一両日中に血膿となって流れ出ました。親戚、身内は、その鮮やかなお働きに驚き、熱心に信心し始めました。
このほか、肺結核で苦しむ婦人におぢば帰りを勧め、婦人が親里で土持ちのひのきしんをしたところ、たちまち全治するということもありました。
当時は、神戸を出発し、上海、香港を経由してシンガポールへ到着するまでに17日間を要しました。ある日、元気に満ちていたタカが、甲板に出ておぢばの方角を遙拝し、「よろづよ八首」のてをどりを始めました。すると船客たちも勇み出し、合掌しておぢばのほうを拝んだことがありました。また、タカは船中で掃除や炊事を手伝い、船員に対して積極的に「互いたすけ合い」「ひのきしん」の教えを説いたといいます。
あるとき神戸から上海へ向かう船中、にわかに不穏な空模様となり、疾風が吹き、大波が激しく打ち寄せ、船体もさらわれそうな危険な状況に陥りました。船客は恐怖に言葉も発せず、船長や船員までもが青ざめて狼狽するなか、タカは泰然として甲板に上がり、「皆さんをたすけるために、天理教の神様にお願いしましょう」と言って、おぢばに向かって「なむ天理王命、たすけたまえ」と大声で唱えました。しばらくお願いしていると、風は静まり、波も穏やかになって、空は晴れ渡ったといいます。こうしてタカが真実を尽くすところ、不思議なご守護が次々に現れました。
誰に対しても隔てなく
大正11年11月5日、名称のお許しを頂き、新嘉坡教会を設立します。当時、マレー半島のマラッカ海峡沿岸の要衝はイギリスの支配下にあり、シンガポールは行政、経済の中心地でした。世界中から人々が集まり、在留する邦人も多くいました。
タカは普段、長いスカートのような服を着て、マレー人と同じような格好をしていました。声だけを聞くと男性のような声で、話好きであり、一日中でも話をして人を笑わせ、愉快にさせたといいます。英語、中国語、マレー語も堪能で、道で出会う人には誰彼なしに話しかけ、病人がいれば、乗り物の中でも道端でもおさづけを取り次ぎました。不思議によくたすかるので、急病人があると車で迎えに来ることもたびたびでした。
月次祭には日本人だけでなく、マレー人、インド人、中国人、ときには西洋人もお参りに来ました。直会では、タカが浄瑠璃を語ったり、皆と歌ったり踊ったりして、にぎやかだったと伝えられます。
同15年5月4日、タカは59歳で出直しました。神経病のように見受けられたと伝わっていますが、どこが悪いとか、痛いなどとは一度も口にしなかったといいます。毎日おたすけに出歩き、ほとんど寝込むこともなく、きれいな顔で眠るように出直しました。葬儀はさまざまな人種の信者たちが集まり、盛大に執り行われました。
◇
44歳までの半生は、成功したい、儲けたい一心で駆け巡ってきたタカですが、教えを聞いて心を入れ替えてからは、いつでもどこでも、誰に対しても隔てなく、たすかっていただきたい一心でおたすけに励みました。困難な節に直面しても決して心を倒さず、神様にもたれ、低い心で真実を尽くしました。
タカは日本からシンガポールへ戻るとき、「わしは教祖のおっしゃる世の中を立てかえる世界改造のお手伝いをさせてもらいますのや」と大声で言って、出立するのが常だったといいます。世界の各地から大勢の人々におぢばへ帰ってもらうことを夢見ながら、おたすけに生きた生涯を閉じたのです。
誰彼の別なく声をかけ、教えを伝えたタカ。後年、「新嘉坡を根拠として、馬來半島、スマトラ、ボルネオ、フィリピン群島から遠く南洋諸島へ道をつけたいと神様に願っています」と将来の夢を語った















