お手作りの品が伝える「はたらく」意味 – おやのぬくみ
『稿本天理教教祖伝逸話篇』29「三つの宝」によれば、あるとき教祖は、のちの本席・飯降伊蔵に掌を拡げるよう促され、籾を三粒持って、「これは朝起き、これは正直、これは働きやで」と仰せになり、一粒ずつ伊蔵の掌の上にお載せくだされた。そのうえで「この三つを、しっかり握って、失わんようにせにゃいかんで」と仰せられたという。
この逸話により、「朝起き、正直、働き」は、私たちお道の者が日常生活で心がけるべき基本的な信仰のかどめとされる。
逸話篇をひもとくと、その一つ「働き」について、教祖は「もう少し、もう少しと、働いた上に働くのは、欲ではなく、真実の働きやで」(111「朝、起こされるのと」)と仰せになり、さらに「働くというのは、はたはたの者を楽にするから、はたらく(註、側楽・ハタラク)と言うのや」(197「働く手は」)とも教えられている。
この「はたらく」ことの具体的なありようを、教祖は口でお説きになるだけでなく、実際に身に行って示された。明治13年にお屋敷へ引き寄せられ、長らく教祖のおそばでお仕えした山澤ひさは、晩年の回顧録で、ありし日の教祖のお姿を生き生きと伝えている。
教祖は、非常にご器用なお方であらせられました。
(中略)
ある時はお徒然のままに布屑を縫い合わせては、鶏や蝉をお作りになったこともございます。しかも、その鶏をお作りになる時は、庭に遊んでいる鶏の姿をご覧になり、蝉をお作りになる時は、蝉を笊の中に伏せてこれをご覧になるのでした。
それにつけて思い出しますのは、ある時、虎をお作り遊ばされたことがありますが、それは襖の虎の絵をご覧になってでありました。そしてその時、教祖は「生きた虎を一度見たいものやなあ!」と仰せられたことがございます。
かように教祖は、お暇があると屹度、何かお手をお働かせてくだされていたのであります。そして少しの時間も、無駄にはお過ごしにならなかったのであります。
さらに、ひさは、こうしたご事績に込められた教祖の親心について次のように語っている。
教祖が機織りを遊ばされたり、いろいろな生物の形をお作りになりましたのは、決してご自分のためや、ご自分のなぐさみにされたのではなく、これを人々におあげになって、人々を喜ばすためであらせられたのであります。すなわち、教祖のお働きの内には、常に人々を喜ばせ満足さすというお慈愛のお心が籠っていたのでございます。
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教祖は、いついかなるときも、ひたすら与え尽くしてお通りになり、人の喜びをわが喜びとされた。お手作りの品々は、いずれも人間として「はたらく」ことの深い意味合いを、いまを生きる私たちに伝えている。