不可能を可能にするDNA – 日本史コンシェルジュ
嘉永6(1853)年6月3日、日本を揺るがす大事件が発生! ペリー来航です。
それはまるで城が海の上を走っているよう。巨大な船は蒸気の力で動くうえに、大砲を備えていました。黒船を見た人は、みな恐怖に震えたことでしょう。
しかし当時の日本人は、驚きや恐怖より好奇心が勝っていました。黒船をひと目見ようと、港は黒山の人だかり。その見物人らを相手に商売をする者や、乗組員に物々交換を申し出る者もいたそうです。
さらに、こんな人も!
「同じ人間が造ったのだから、日本人も黒船を造れるはず」
そう考えたのは、薩摩・佐賀・宇和島(現在の愛媛県宇和島市)のお殿様たち。実際この三藩は、ペリー来航から6年の間に、それぞれ国産の蒸気船建造に成功するという離れ業をやってのけるのですが、雄藩である薩摩と佐賀に対し、宇和島藩はわずか十万石。予算もなければ設備もありません。
そんな宇和島藩が白羽の矢を立てたのは、西洋医学を修め、オランダ語に堪能な村田蔵六でした。蔵六はオランダ語の書物の翻訳と船体の建造を担当。彼は、のちに大村益次郎と名乗り、明治陸軍の礎を築くことになりますが、この時は開業医だったのですから、無茶ぶりもいいところです。そして、無茶ぶりをされた人物がもう一人。このプロジェクトの鍵を握る蒸気機関の製造を、提灯張りの職人・嘉蔵に託したのです。
嘉蔵は蒸気船の研究のため長崎へ留学しました。出発に先立ち、士分に取り立てられたものの、同行した武士が町人扱いするので、長崎滞在は嘉蔵にとって屈辱的でつらいものでした。荷物持ちにされ、時間に遅れると食事を与えられないなどの不遇に甘んじました。
しかし嘉蔵はめげなかったのです。きっとこのプロジェクトに、彼なりの意味を見いだしていたのでしょう。やがて嘉蔵に味方する者が現れました。心強い支援者のおかげで成果を得た嘉蔵は、宇和島へ帰り、蒸気機関造りに着手。失敗と研究・改良を繰り返しながら、ついに安政6(1859)年2月、宇和島藩において純国産の蒸気船が完成したのです。
かつて種子島に火縄銃が伝わったとき、二丁買い取っただけで、それと同じものをすぐに作りあげた日本人。約300年後、今度は語学に長けた医師と手先の器用な職人がタッグを組んで、蒸気船を建造しました。この不可能を可能にするDNAが、あなたにも受け継がれているのです。
白駒妃登美