教史再彩 “道のさきがけ”を今に – 「災害救援ひのきしん」の精神
モノクロームの教史の1シーンが、AIによって今によみがえる。その彩色された世界から見えてくるものは―――。
伊勢湾台風が近畿・東海・中部地方の全域に甚大な被害をもたらしたのは、昭和34(1959)年9月26日の夜半だった。「“自分たちより大きな被害を受けた人たちをまず扶けよう”と、愛知教区内から集まった約四十人のよふぼく信者が出動(中略)無惨に打ちくだかれ、泥の山となっている全壊家屋の跡片付にとりくんでいるが、あまりの惨状になすことをしらなかった現地の被災者も、復興への元気を与えられ、涙に光る目で深い感謝の言葉をもらしていた」
(『天理時報』昭和34年10月11日号から)
本教の災害救援の始まりは、明治24(1891)年に起きた濃尾地震にある。
推定マグニチュード8.0の大地震が岐阜・愛知の両県を襲った際に神意を伺うと、「何にも怖わき事は無い。よう運び、順々の理に受け取る。一ぶ万倍の理に受け取る」(明治24年11月5日)との「おさしづ」があった。これを受け、被災地に真実を尽くした結果、仏教の盛んな美濃・尾張で道が伸展。組織だった民間の援助活動が珍しかった当時、「なぜ、こうした義挙をなし得るのか」との被災者の問いに、「天理教の教理を心にしっかり治めて実践しているからだ」と胸を張って答えたという。
それから約70年後、巨大台風が愛知を襲う。すでに教会本部には災害対策委員会が常設されており、各教区でも“有事”の際に「ひのきしん隊」が結成されるなど、今日に近い態勢が整いつつあった。
愛知教区災害対策委員会では、他教区からも応援に駆けつけた“ひのきしん隊”を中心に水上班、医療班、建設班、輸送班、炊事班を独自に編成。ゴムボートに医師と看護師を乗せた医療班は、浸水した地区で巡回診療を行った。
このとき、行政も本教の活動に理解を示し、連携して役割分担。ひのきしん隊は、人手の行き届かない場所の後片づけや道路清掃など、被災者の生活に密着した作業に徹した。自衛隊のトラックに天理教の旗を連ねて出動したので、人々は目を見張ったという。愛知県内では、延べ7,000人余りが救援ひのきしんに尽力した。
この後、常設の「災害救援ひのきしん隊」構想が打ち出され、各教区に隊結成を呼びかけた。昭和44年5月3日、全教に先駆けて正式結成したのは愛知教区隊だった。初代隊長の成田教興氏は「伊勢湾台風の時、東京・大阪・静岡などの教区から救援に駆けつけてくださり、たすかりました。今からはその恩返しをしなくちゃあかんと思っています」と語った。
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本教の災害救援の歴史を振り返るとき、難渋する一れつ兄弟姉妹に手を差し伸べようとする真実の心が、今日まで連綿とつながっていることに気づく。その精神は、災害時のみならず、信仰者の常時の範となるものであろう。
伊勢湾台風における救援活動の様子を、動画でご覧いただけます(AIでカラー化)
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