新型コロナ終息のお願いづとめ – 日々の行いを心に定めて
教会本部は10月1日、本部神殿でお願いづとめを勤めた。
このお願いづとめは、新型コロナウイルス感染拡大の終息と罹患者の平癒をあらためて願うとともに、お互いの心を一つに合わせてご守護を願う意味を確認するもの。今年4月から、毎月1日正午から本部神殿で勤められている。
当日、感染拡大を防止する対策として殿内の参拝者を制限するとともに、南礼拝場前にパイプいすが設置された。定刻正午、中山大亮様は、宮森与一郎・内統領と共に神殿上段へ参進。大亮様が拍子木を、宮森内統領が数取りを務めて、お願いづとめが勤められた。
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おつとめに先立ち、宮森内統領があいさつを行った。
宮森内統領は、新型コロナ終息のお願いづとめについて、たすけを願う気持ちが日々に浸透していけばとの思いから始まったものであるとして、「日々」という言葉について話を進めた。
その中で、「おふでさき」に見られる「日々」について、そのほとんどがたすけてやりたいという親神様の親心に関わるお歌であり、たすけを実行する私たちの心定めに関わるお歌であると言及。そのうえで「にち/\に月日の心をもうにわ をゝくの人のむねのうちをば」「せかいぢうしんぢつよりもむねのうち わかりたならば月日たのしみ」「それからハ一れつなるのむねのうち わかりたならば月日それより」「だん/\とにち/\心いさめかけ よふきづくめをみなにをしへて」(十号57、59、60、61)のお歌を引いて、「親神様のお心、教祖のひながたを伝えるのが私たちである。おたすけに回るのは私たちである。そして、その心を常に日々と仰せられている」と述べた。
さらに、「皆成程の理が分かれども、日々の理が分からねば、どうもならん/\/\。(中略)何程の理があっても、容れ物へ入れて始末してあっては、何にも分かろまい」(明治22年4月17日)との「おさしづ」を引き、教えを理屈では理解して、ありがたいと思っていても、日々の行いとならねば分かっていないのと同じであると指摘。「お道の信仰者として、日々の姿、日々の行いはどうあるべきかを、それぞれにしっかりと心に定めて、いまからお願いづとめに掛からせていただきたい」と語った。