思召に素直に飛び込む – 視点
『稿本天理教教祖伝』を読んで気づくことの一つに、括弧付きのお言葉は、教祖(親神様)のお言葉に限られているということである。
人間の言葉は、たとえ秀司様、こかん様、眞之亮様、飯降伊蔵先生の言葉であっても、原則として括弧付きで書かれていない。(ただし人間の言葉でも、「なむ天理王命、なむ天理王命」と神名を唱える場面は括弧付きで用いられている)
その中で、1カ所だけ例外がある。
天保9年10月26日朝五ッ刻(午前8時ごろ)、善兵衞様が堅い決心のもと、親神様に申し上げた
「みきを差上げます。」
との言葉である。
この箇所だけ、人間の言葉が括弧付きで、しかも改行されて使われている。これは、それだけ大事な言葉であり、見落としてはいけないということを表している。
「元初りの話」で、親神様は、道具雛型を「承知をさせて貰い受け」られた。それと同じように、この道を始められるに際しても、人間の心の自由を尊重され、談じ合った結果、人間が自ら心を定めることを重視された。その人間を代表する立場に立たれたのが、夫・善兵衞様である。
善兵衞様の返答により、教祖は月日のやしろと定まられ、本教では、この瞬間をもって「立教」としている。
このときの善兵衞様のお気持ちについて、『天理教教典』では「遂に、あらゆる人間思案を断ち、一家の都合を捨てて、仰せのままに順う旨を対えた」と表現しているが、ここには信仰を進めるうえでの大事なポイントが含まれていると思う。
すなわち、自分の理屈や都合を断ち切り、神様の思召に素直に飛び込むということである。この心定めがあったからこそ、お道は始まったのである。
秋季大祭は立教を記念する祭典であるとともに、立教の元一日に際しての、神一条の心定めを確認させていただく日であると教えられる。
(山澤)